【第420回】 霊と体を平行に

合気道は相対で技をかけ合いながら精進する武道であるが、技をかけても、受けの相手は思うようには倒れてくれないものである。

なんとか倒そうと体力や腕力の力に頼っても、相手にも相応な力やそれ以上に強い力があると、力と力がぶつかり合って、倒れてはくれない。開祖はこれを、「ものというものが主になると、気が停滞する。そうするとどう動きようもなくなる」といわれている。

合気道では、体力などの物理的な力である魄でやると、争いになってしまい、そして、体を壊してしまう、と戒めている。だから、この次元からは抜け出さなければならない。つまり、魄ではなく、魂で技をかけなければならないのである。魂とは、精神である。つまり、精神で技をかけなければならない、ということである。ちなみに、魄は物理、といわれている。

しかしながら、体や物理の魄ではなく、霊や精神の魂で技をかけても、相手はそう簡単に倒れてくれるものではない。極端にいえば、念じて相手を倒そうとするようなものである。開祖でさえそのようなことはしなかったし、恐らくはお出来にならなかったと思う。

そんなことを考えている時、ふと、開祖の言葉が目についた。開祖は「まず人の案内をするために、自分の岩戸を開いて、霊と体とを平行にしていかなければならない」(「武産合気」)といわれているのである。

この「人の案内をするために」は、相対で受けの相手に技をかけ、相手が満足するように導くため、と解釈できるだろう。

さらに、最初にある「まず」を考えてみると、これは体や物理の魄を脱するためには、まずやるべきことがある、ということだと考える。つまり、体や物理の魄の稽古から、すぐに霊や精神の魂の稽古に移るのではなく、その前にやるべきことがある、という意味であろう。

やるべき事のひとつは、「自分の岩戸を開く」ことである。自分の岩戸を開くとは、自分の立てかえ、立てなおしをすること、つまり、自分の心を直すことである。これまでの即物的、物質的、物理的な考え方や生き方、そして稽古の仕方を、180度変えることである。つまり、何事も魄を魂に立てかえること、精神が物質たる肉体をよろこび使うこと、万有万物が一元のもとにつながっていることを忘れないこと、全大宇宙は一家族であり、万有万物は宇宙天国建設への生成化育の使命をもって生滅を繰り返していること等を悟り、実行すること、になるだろう。

やるべきことのもう一つは、「霊と体とを平行にする」ことである。それまで体(魄)主体でやってきたのを、霊(精神)もつかわなければならないということである。そして、それまでは体に比べて弱かった精神をどんどん強くし、体と同等になるまで鍛え、そして、技をかける際には、これまでの体中心ではなく、体と精神が一体となるようにつかわなければならない、ということだろう。

体の稽古、魄の稽古から抜け出すためには、「まず」自分の岩戸を開いて、霊と体とを平行につかうようにしなければならないのである。

これは、「まず」であるから、さらに先があることになる。例えば、精神、魂を表に、魄を土台にして、魂の比礼振りで技をかけていくのである。そのように進めていけば、力、魄に頼らなくても、精神、魂で相手が倒れてくれる可能性が出てくるだろう。これが、開祖がいわれた、合気の技は摩訶不思議でなければならない、という事であるかもしれない。