合気道では、大男や力持ちにも技が効くようにならなければならない。合気道は武道であるから、当然であろう。スポーツには体重別、男女別、年齢別などがあるが、武道にはない。武道にそのような制限があるようになったら、それはスポーツになってしまう。
だが、小さい者が大きい者を、力の弱い者が力の強い者を技で制することが、果たして本当に可能か、一度考える必要があるだろう。答えは、不可能でもあるし、可能でもある。
不可能であるというのは、力(体力・腕力・気力・魄力)でやる場合は、より大きい力を持つ者には敵わないからである。こちらが力をつかうと、相手は倍返しの力で反発してくるから、自分より大きい者に効くわけがない。力の稽古から抜け出さなければ、小が大を、弱が強を制することは、不可能である。
しかし、小(体や力)が大を制する可能性はあるし、また、そうならなければならない。なぜなら、それが開祖の教えであり、合気道の道だからである。
合気道での真の力は、目には見えない力、魂の力や気の力である。大きい者、強そうな者でも、外見に比例して見えない力が強いとは限らない。反対に、小柄な者でもそのような強い力を身につけることができるし、使うこともできる。肉体を鍛えることには物理的、年齢的な限界があるが、この見えない力には限界がないはずである。
大が小を制するというと、小に応援し、大に敵対しているようだが、大も小と同じように、この見えない力をつけていかなければならないし、また、できるはずだ。大兵も力(腕力)を求めて合気道の稽古に来ているわけではないだろうし、この見えない力を求めてきているはずである。
小が大を制し、見る者の称賛をうける典型的なものとして、相撲がある。小兵が大兵を投げ飛ばすのを見るのは、気持ちよいものだ。それは、小さい者が大きな者を投げるというだけでなく、そこに技が決まるための理合があるからであろう。
今年の大阪場所8日目で、幕内最軽量で123kgの里山が、幕内で2番目に重い199kgの臥牙丸を見事に投げ飛ばした。里山関は「腰に乗せるというか、型にはめたら(相手の)重さは感じない」(朝日新聞2014.3.7)と言っていたのが印象的であった。小が大を制するひとつの条件は、この「重さをなくす」ことであろうと考える。
合気道でも、技をかけて相手の重さが0(ゼロ)になると、技が本当にかかったことを実感できる。そして、気形で鍛錬する合気道の形には、相手の重さが0になるところがあるようである。開祖はそのように形をつくられたように思う。
しかし、相手の重さをなくすのは、容易ではない。なぜなら、やるべきことをやらなければ、相手の重さはなくならないからである。
やるべきことはいろいろあるだろうが、気がついたことを書いてみる: