【第416回】 教えるのではなく行う

何事も同じだろうが、合気道でも、初歩的な事は教えることも教えてもらうこともできるが、だんだんとそれが難しくなり、不可能になっていく。

真の実力があり、信頼性のある先生や先輩がいれば、高段者になっても教えてもらえるかもしれない。だが、それにも限界がある。教える側と教えられる側には、実力の差がある程度なければならないが、いずれその差がなくなるか、あるいは、教える側がいなくなってしまうことがあるからである。
高段者になっても人に教わらなければ稽古できないようでは、上達もとまってしまうに違いない。

では、どうすれば上達できるか、を考えなければならない。他人に教えてもらえないとしたら、自分に教わらなければならなくなるだろう。それは、もうひとりの自分である。現実の不出来な自分を監視し、導いたり、叱咤激励してくれる、もうひとりの自分である。

自分に教えてもらうためには、自分の声を素直に聞かなければならない。
その声に耳を傾けていると、いろいろなことを教えてくれるものだ。

例えば、今のはよかった、悪かった、ここは出来が悪い、ここはこうしろ、等などである。この声に間違いはないようであるし、非常に有効でもある。他人が教えてくれるとしても、この声のように、こちらの上達のために親身になってはくれないだろう。

自分の声を聞いて、稽古したり、生活していくと、他人や自分の周りからも教えてもらえるようになる。他人の動きや技を見て覚えたり、まずい動きや技を見てその原因を見つけ、自分はそうならないように反面教師にするなどして、学ぶこともできるのである。これも自分の声なのだろう。

高段者になって、教えてもらうことができなくなると、見て覚えなければならない。昔の人が言ったように、「技を盗む」「技は盗め」ということである。

実際に、技とは教えられないものである。相手が教えることを受け入れられなかったり、基礎ができていなければ、できるわけがない。教えようとする側のマスターベションに終わってしまう。

また、教えようとすることが未熟であったり、間違っている可能性もあるだろう。能動的に教えようとする場合には、教える側に責任があることになる。しかし、見て盗むのなら、本人の責任である。

もっともよい教えは、自分が行なって、盗ませることであろう。しかし、技を盗ませようなどと考えながらやっても意味はない。そういう態度で技をつかっても、反感を買うか、無視されるのがオチである。

自分に負けないように、自分と戦うことが大事なのである。人が見ようが見まいが関係なく、稽古に集中しなければならない。見せようという意識を持ったり、逆に見せまいと隠したりはしないことである。

開祖は技の説明など一切されず、技を教えては下さらなかった。それを開祖は「だが、特に植芝は常に天之浮橋に立っておらんと、人々の前に範を示すことが出来ません。私は教えるのではなく、行うのです。(みなさんは)行いを見て和合し、祭政一致の本義を知ってほしいのです」(『武産合気』)とおっしゃっている。

教えるのではなく、一生懸命に稽古を続けていく姿を見せること、行うことが、真の教えのようである。