【第410回】 できるできないは別にしてやる

合気道は、相対で相手に技をかけ合いながら精進していく武道である。争いを禁じている合気道には、試合はないし、技のかけ合で強い弱い、上手下手が決まるような勝負もない。

しかし、相対で稽古すれば、どうしてもどちらかが強かったり、うまかったりするものだ。勝負しているわけではないが、相対で稽古すれば、両者には互いにわかるものである。その意味では、とりわけ試合なども必要ないことになる。高段者になれば、相手を見た瞬間に、あるいは触れた瞬間に、技量がわかる。

しかし、人には闘争本能があり、優位に立とうとする性がある。相対稽古においても、相手を倒し、おさえて、相手を納得させ、参りましたと思わせたいようだ。だから、相手を何とか倒そうとして、倒すことが稽古の目標にしてなり、倒せばよいということになってしまう。

もちろん、入門当時や若いうちは、相手を倒すための稽古をするのはよいし、すべきであると考える。これで、体や心(気力)ができるからである。しかし、ある程度の体と心ができたら、そのような稽古法は改めるべきだろう。倒すことを目標にすると、大事なことを勉強する機会を失してしまうのである。

稽古で学ぶことは、たくさんある。例えば、技(形)稽古の中から、宇宙の法則・条理を見つけ、それを身につけていく、左右・裏表・陰陽の法則に自分の動きをはめ込んでいく、等など。基本の技の形に、自分の技をはめ込んでいくのである。

つまり、呼吸に合わせて動き、体をつかう。動きと体に、意識を入れていく。自分の弱い部位を見つけ、補強していく。自分の手足の末端と体の中心の腰腹を結び、力と気持ちが通じるようにする、そして、相手の体と心と結び、相手が動くようにする。また、呼吸力が少しでもつくように、技使いの研究もしていかなければならない。

このようなことを勉強するのが、稽古である。倒すことが稽古の目標になってしまえば、このような勉強を無視することになり、そのような稽古を続けても、真の上達は難しいことになる。

相手を倒すことを目標としないで、上記のような勉強をしようとすると、一時は弱くなり、下手になるものだ。それまで容易に倒していた相手にやられるだろうし、手足も以前のようには自由に動かなくなるだろう。あせる気持ち、これでよいのかという不安などに耐えて、その道を信じ、自分を信じて、大事なことを学ぶ勉強のための稽古をしなければならない。

自分の勉強したことを、相対稽古で相手に試すわけだが、初めはなかなかうまくいかないものである。理論的に正しいと思って技をかけても、思うように相手は倒れないだろう。しかし、相手が倒れないからといって、ここで腕力を使って倒したのでは、元の黙阿弥になってしまう。

自分が納得した、理にかなった、理合の技なら、相手にかからなくともよい。そのうちにいつか、必ずかかるようになるはずである。少なくとも、そう信じてやればよい。何しろ、理に合っているのだから、宇宙が応援してくれるはずだ。

初めはなかなかうまくいかないだろうが、そのうちに、勉強したことが生きてきて、その各々が相乗効果で働き、技がどんどん変わってくるはずだ。それまでは、相手を倒そうとして相手を倒していたわけだが、理合の技を使っていくと、相手が自ら倒れるようになるものである。

武道であるから、技をかけて相手が倒れなければ、その技は効いたことにはならない。しかし、未熟であったり、技の使い方を間違ったりすると、倒れない場合もあるし、思うような倒れ方をしない場合もある。その場合は、無理に相手を倒すのではなく、その原因を見つけ、自分の技の修正をしていくのである。

相手が倒れるのもよし、倒れないのもよし、ということで、できるできないは別にして、勉強していかなければならない。

ちなみに本部道場の師範だった有川定輝先生は「できるできないは別にして、こういうこと(その時は、手刀の使い方を教えて下さっていた)を勉強するのが稽古で、倒すことではない」といわれていた。