【第397回】 誰とでも稽古ができる

合気道は相対で技をかけ、受けを取り合いながら、稽古していく。初めは、先生や指導者から教わったことを、体に覚え込ませて、身につけていく。ある程度、基本の技(技の形)を覚え、体ができて、受け身もとれるようになってくると、先生から教えてもらう上に、相対での稽古相手からも学ぶことになるだろう。いわゆる、先輩や同輩から技を盗むわけである。先輩や同輩の受けを取りながら盗み、それをまた先輩にかけたり、同輩に試してみたりするのである。

20年、30年と稽古を続けると、先輩がどんどん少なくなってくる。技を盗む相手、つまり教えてもらう人がいなくなる訳である。

教えてもらう人がいなくなると、自分でやるしかない。もちろん同輩や仲間とやることもできるが、それだけでは限界があるようなので、次のステップを考えたい。

ここからが、本当の稽古になる、といえるだろう。自分で考えたり、試したりする、試行錯誤が始まるわけである。それまでの延長線上で稽古しても、上達はないから、これまでの稽古や考え方を変えなければならない。同輩や仲間内で稽古を続けると、ほとんどがそれまでの延長線をいくことになってしまうようである。

そうは分っていても、すぐに上達するはずがない。技がうまくかかるようになるどころか、だいたいは一時、下手になるはずである。新しい事に挑戦するときは、ふしぎなことに、必ず一時、下手になるものである。

稽古で、さらなる上達のために大転換をしようとすれば、先ずは原点に帰ることである。つまり、初心に帰ることである。

私の場合は、相対の稽古相手を変えてみた。誰とでも稽古できるようにしたのである。それまでは、先輩や同輩と力一杯投げたり、抑えてもらったりしていた。だが、今度は自分より力のない、技の形も十分に身につけていない相手とも、率先してやるように心がけた。以前だったら、力と勢いで相手の息を上がらせ、してやったりと喜んでいたような相手である。

今度は、しかし、以前とは大きく違うことがあった。それは、自分が満足するのはもちろんであるが、相手にも満足してもらう稽古をすることを、モットーとしたことである。

これは、意外と大変なことなのである。例えば、足腰も衰え、体力もない高齢者と一時間、最後まで稽古を続けると、気をつかうだけでなく、こちらも相当な体力をつかうのである。相手が途中で息が上がったり、足腰が痛くなって休まれないように、相手の気持ちと息に合わせて技を使わなければならない。相手の受けを取る際は、相手の気持ちに合わせ、気持ちを読んで、受け身を取らなければならない。

また、基本の技がまだ十分に身についてない初心者とやる場合は、なるべく基本的な技づかいで投げたり抑えたりする。受けを取る場合も、相手がうまく動けるように導いてやらなければならない。二教や三教でも、こちらはがんばるのではなく、存分にかけられてやることである。

相手が高齢者でも初心者でも、向こうが十分に動けるように、受けの場合は理合で動かなければならない。足を左右交互に陰陽で使わなければ、相手の動きを止めることになって、相手の稽古にはならないし、もちろん自分の稽古にもならないのである。

子供や初心者や高齢者などと稽古すると、受け身の重要さと難しさをつくづく感じる。子供でも老人でも、受けを取る相手を気持ちよく投げた、抑えたということに満足感を覚えるだろうだから、その期待に添うようにすることである。

つまり、受け身を取るにしても、身を軽くしたり、大きく飛んだり、小さくおさめたり、自由自在に取れるようにしなければならない。また、稽古場の混み具合によっても、投げる場合だけでなく、受けを取るのも、変えていかなければならないだろう。

投げる相手が高齢者とか初心者ということになると、怪我をさせないように導き、相手の技量に合わせて投げたり抑えることが必要になる。これはまだ容易であるが、受け身を取る場合は、意外と深いものがあり、実に難しいものだ。

先輩がいなくなると、次には、自分たちが先輩となる。先輩といっても、修行は続いていくわけだから、後輩、後進のこともよく知らなければならないだろう。相対で、技をかけ合い、受けを取り合いして、共に稽古するのであるから、誰とでも稽古できるようにすることである。そうすれば、これまでにない事が勉強できて、さらなる上達があるはずである。