【第379回】 技以前の問題

合気道は、その基本技を何度も何度も繰り返しながら稽古し、上達していくものである。しかしながら、なかなかうまくできないものである。うまくできないというのは、技は効かず、様(さま)にならないし、受けの相手も納得していない、等ということである。

合気道の技は植芝盛平開祖がつくられたが、開祖によれば、合気道の技は自然ということであり、無駄がなく、理に合っている、ということである。

合気道で技が上達するためには、呼吸力をつけることと、宇宙の営みからの法則を見つけ、身につけること、と考える。だから、誰でも上達することはできるはずである。しかし、現実はすこし違うようで、上達は難しい。

なぜ難しいのか、なぜ理合の技が使えないのか、を観察してみると、技以前の問題があるように思える。

それは、まず稽古を始める前の思考、体使い、力使いなどが、稽古での技づかいを邪魔していることである。例えば、競争社会にあるため、相手に勝とうとか負けまいと思ってしまったり、あるいは日常生活でするように、手足を自由奔放(つまり、めちゃくちゃ)に使ったり、腕力を呼吸力と間違えてしまったりすることである。

次に、それとは逆であるが、ふだんの動作と同じように自然にやればよいものを、稽古ということで、ふだんとは違う動作になってしまって、技を使えないようになってしまうのである。

その適例としては、歩法、足の進め方である。通常、歩く時は、足を右、左、右、左・・・等と足を左右交互に、規則的に使っているはずである。ところが、稽古になると、この規則が破られてしまうのである。だから、例えば一教裏や入身投げなどで、最後の足が違ってしまい、受けの相手とぶつかって、うまくいかないのである。

人も、宇宙のなにものかによって創造され、何かに向かって世代交代を繰り返しながら進んでいるわけである。つまり、人も宇宙の営みの中にあるわけだから、人の動作にも宇宙の条理、法則、理合があるはずである。

従って、人としての動作、立ち振る舞いも、宇宙の条理、法則、理合に合わなければならない。これは、稽古以前の問題であり、人としての基本であろう。

歩く場合でも、宇宙の条理、法則、理合に満ちた歩き方もあるし、それにほど遠い歩き方もある。技の稽古で足を使う場合は、その程度に応じて、技の効き方が違ってくることになる。

合気道の技は手でかけるが、技は足でかけるものであると思う。手も大事であるが、足が理に合った動きをすれば、大体はうまくかかる。足が左右交互に規則正しく使われなければ、うまくはいかないだろう。

最もわかりやすい例は、太刀捌きである。木刀などで打ちこんでくるのを、入身転換で捌くのである。木刀なら命を落とすこともないだろうから、試してみるとよい。初めは木刀が肩などに当たったりして痛い思いもすることだろうが、稽古だと思って我慢することである。

慣れてくればわかるであろうが、太刀捌きというのは、手ではなく、つまり、歩くことで捌くのである。自然に歩ければ、うまく捌けるものである。

しかし、太刀捌きで歩くことを稽古するのでは、叩かれて痛いだろうから、長続きは難しいだろう。
この技の稽古のためには、歩く稽古をしなければならない。道場でもできるが、街や自宅などで稽古ができるだろう。

このような歩くことだけではなく、技以前にも問題があることに、気がつかなければならない。