人はいろいろなことをいろいろな所で学んで、成長している。学ぶということは、新しいことを知ることである。初めは、親や先生や指導者などから教わるが、自分が大人になり、学校を卒業し、指導者もいなくなって、教わる人がいなくなってくれば、その後の新しいことは自分で見つけていかなければならない。つまり、新しいことを発見するのである。これは、合気道の稽古においても同じだろう。
しかし、合気道の稽古においては、発見しただけでは自己満足に終わってしまうはずだから、それほど意味がない。また、その発見したものが正しいものかわからないので、検証しなければならない。検証して、修正し、そしてそれを身につけていかなければ、発見の意味はないだろう。これを、開祖は「科学する」と言われているようだ。この発見したことを技で現わすことを「祭政一致」というのだろう。
発見は大事であるが、発見があるためには、学問や仕事と同じように、稽古においても毎日、欠かさずやることであろう。毎日稽古をするというのは、毎日道場にいって汗をかいて稽古をするということではない。初心者のうちはそれも必要だが、高段者になれば、できることを毎日稽古すればよい。自主稽古を自宅でしたり、合気道の技や思想を試作したり、書籍を見たり、合気道談義等などを毎日やって、合気モードを持ち続けていけばよいのである。
合気モードでいれば、道場の外でも見るもの聞くものが合気道とつながり、いつも稽古していることになる。また、周りのものが合気の精進をサポートしてくれるようにも思えてくる。発見は道場だけでなく、道場の外にもあるのである。
発見はよいが、その発見が意味あるものかどうかが、大事である。新しい発見をしたと思って一人悦に入っていても、それは意味ないものかも知れない。また、技でなかなか表わせなかったり、受けの相手に通じないと、発見を喜べないかも知れないが、実は素晴らしい発見であるかもしれない。
発見が意味のあるものなのかどうか、判断するものがあればよいわけであるが、私の判断基準は次の通りである。
ある発見が意味あるものかどうか、つまり、正しいものなのかどうかは、次の公式に当てはまるかどうかで決まる、と考える。