【第372回】 稽古は発見

人はいろいろなことをいろいろな所で学んで、成長している。学ぶということは、新しいことを知ることである。初めは、親や先生や指導者などから教わるが、自分が大人になり、学校を卒業し、指導者もいなくなって、教わる人がいなくなってくれば、その後の新しいことは自分で見つけていかなければならない。つまり、新しいことを発見するのである。これは、合気道の稽古においても同じだろう。

しかし、合気道の稽古においては、発見しただけでは自己満足に終わってしまうはずだから、それほど意味がない。また、その発見したものが正しいものかわからないので、検証しなければならない。検証して、修正し、そしてそれを身につけていかなければ、発見の意味はないだろう。これを、開祖は「科学する」と言われているようだ。この発見したことを技で現わすことを「祭政一致」というのだろう。

発見は大事であるが、発見があるためには、学問や仕事と同じように、稽古においても毎日、欠かさずやることであろう。毎日稽古をするというのは、毎日道場にいって汗をかいて稽古をするということではない。初心者のうちはそれも必要だが、高段者になれば、できることを毎日稽古すればよい。自主稽古を自宅でしたり、合気道の技や思想を試作したり、書籍を見たり、合気道談義等などを毎日やって、合気モードを持ち続けていけばよいのである。

合気モードでいれば、道場の外でも見るもの聞くものが合気道とつながり、いつも稽古していることになる。また、周りのものが合気の精進をサポートしてくれるようにも思えてくる。発見は道場だけでなく、道場の外にもあるのである。

発見はよいが、その発見が意味あるものかどうかが、大事である。新しい発見をしたと思って一人悦に入っていても、それは意味ないものかも知れない。また、技でなかなか表わせなかったり、受けの相手に通じないと、発見を喜べないかも知れないが、実は素晴らしい発見であるかもしれない。

発見が意味のあるものなのかどうか、判断するものがあればよいわけであるが、私の判断基準は次の通りである。

ある発見が意味あるものかどうか、つまり、正しいものなのかどうかは、次の公式に当てはまるかどうかで決まる、と考える。

  1. 宇宙楽園建設、宇宙の生成化育にしたがっているか
  2. 宇宙の意志である、至善、至美、至徳などの方向に逆行していないか
  3. 宇宙の法則に則っているか
これを一言で言ってみれば、「自然」であるかどうかということになるだろう。不自然なものの発見は意味のない発見ということになるし、宇宙楽園建設を妨げることになるかもしれない。「自然」とは、多くも少なくもないもので、「美」でもある。

自然の発見をし、身につけ、自然になり、そして宇宙と一体化する。これは合気道の目標であるし、公式にも当てはまることになり、意味のある発見ということになろう。