【第370回】 合気道は武道
合気道は武道である。武道として稽古をしていかなければ、合気道の上達はないだろうし、技の完成はないと思う。技を高め、合気道を精進したいと考えるならば、もう一度、合気道は武道であることを再認識し、武道的な稽古をしていかなければならないと考える。
一般的な武道の定義はいろいろあろうが、それはそちらにお任せしておいて、合気道での武道とは何か、を考えなければならないだろう。
まず、合気道は武道であるから、武道の稽古をしなければならないが、武道の稽古の基本は、
であると考える。
危険を察知するとは、人間が本来持っていたはずの危険に対する本能を呼び起こし、危険を感じる勘を働かせることである。例えば、技をかけられた時に、これでは首を絞められるとか、背負われてしまうとか、あるいは受けの相手からとんでくる足が顔面を打つだろうとかを、瞬間に察知することである。
また相対で稽古をしている相手だけでなく、周りの稽古人たちからの危険、例えば、隣の稽古人がこちらの稽古領域に入ってくるとか、受け身が飛んでくる等の場合もある。
次の危険に身を置かない、とは例えば、
- 相手の領域、つまり、技をかける際に相手の円の中に入らないことである。技をかけるときに、相手の円内に入って技をかけようとすれば、技がかからないだけでなく、相手に攻撃されてしまう。これは自殺行為ということになり、武道的には駄目である。
- 相手と向き合わない。つまり、技をかける際には相手に腹を向けない、四つにならないことである。相手と向き合うということは、相手の前に身を置くことになるので、相手の攻撃を容易に受けることになるし、技はかかり難いことになる。
- 踏みとどまらないことである。技をかける際も、受けの場合も、足は右、左、右と交互に、規則的に動いていなければならない。右、左の順序が狂ってしまったり、居ついてしまったときに、スキができてしまうからである。これは、捕りも受けも同じである。
合気道は捕りと受けを交互に稽古するが、捕りと受けの役割を武道として考えなければならないだろう。
捕りは技をかけるので、少しでもうまく技がかかるように稽古することが武道的な稽古であると思っているようだ。だが、それで満足せずに、常により武道的な稽古になるように努めなければならないと考える。
例えば、動きの中で当て身が自然に要所々々で入るようにし、またそのどの場所でも、いつでも必殺の当て身が入れられるようにと、厳しく稽古をする。そして、こちらの技によって受けが自ら倒れるようにする、受けの相手が悪さをしないように、女郎蜘蛛のごとく体も心も絡め取ってしまう、等などを考えてやることである。
さらに、受けの武道的な稽古というのも難しいように思う。受けは、捕りに対しては攻撃者である。初めから最後までスキがあれば、捕りに攻撃を加える役割である。しっかり打ったり、掴んだりすると同時に、相手が自分の受けの領域の円内に入れば、攻撃を加える役割でもある。
しかし、これを実際にやってしまうと、初心者などは稽古にならないだろう。稽古が殺伐となってしまうので、やることはできないし、やらない方がいいと思う。だが武道であるわけだから、自分も初心者も、殺伐にならないような方法で武道的稽古をすべきであろう。
それは、力一杯に力んで持ったり打つのではなく、またスキがあるたびに打ったり蹴ったりするのでもない。気持ちでしっかり抑えたり、打ったり、蹴ったり、突いたりする方法である。周りには見えないだろうが、相対の二人には、その武道的な厳しさがわかるはずである。
もうひとつ武道の稽古をする上で大事なことは、受けに期待しないことである。合気道の相対稽古では捕りと受けの役割は決まっていて、捕りは技をかけ、受けは受けをとるとなっているから、捕りが受けは受けを取ってくれる、倒れてくれるものと思ってやると、武道的稽古にならず、演劇や舞台の立ち回りになってしまう。
本来的には、技はかかり難いもの、受けの相手は倒れないものと思い、それ故にいかに技を効かせ、受けが倒れるようにするかを考え、試すのが稽古である。それが、武道的な稽古ということになるだろう。
また、武道であるから精一杯やらなければならない。例えば、
- 手を掴むのも、肩や胸を掴むのも、正面打ち・横面打ちも、精一杯やらなければならない。精一杯ということは、がむしゃらにやるということではなく、相手と自分の最高のもの、最高のところで、ということである。
- 技をかける時も、精一杯にかけることである。自分のすべてを総動員し、全身全霊で、相手が受け身を取れる限界すれすれでかけるのである。相手に緊張感が出なかったり、また、相手を壊してしまえば、武道的稽古は失格である。
- 相手が誰であろうと、体も気持ちも精一杯出しきって稽古することである。稽古の良し悪しは、稽古相手に依存するのではなく、自分自身にある。スポーツのような対人的なものと違い、自分との闘いである。これが、武道的な稽古である。
最後になったが、スキがないように稽古をすることが、武道的稽古ということであろう。スキがあれば命がない、と思うぐらいの稽古にならなければならない。稽古の時は、自分と相手にスキを見つけては取り除くようにして、スキのない業と技を身につけていくのである。スキは、自分で感じるものである。他人は見落とすかも知れないが、自分を欺くことはできない。これも、自分との闘いである。
Sasaki Aikido Institute © 2006-
▲