【第364回】 稽古の趣旨

合気道は、技の練磨を通して上達していくものである。上達するためには、技の練磨をすればよいが、しかし、上達とは何を基準にしているのだろうか。稽古の趣旨ともいうべきものが、はっきり分からないと理解できないのではないだろうか。

上達ということは、何かを基準にして、その基準のもとでレベルアップしていくことであろう。では、まずその上達の基準を定義しなければならない。上達のための基準には二つある、と考える。

一つは、「呼吸力」である。まずは、日常の力とは別の異質の力、「呼吸力」を身につけることである。引力のある、相手の心に働きかけるもので、開祖がいわれる「天之浮橋に立った」力、体力に依存しない力である。

日常使っていた力(迫力、腕力)を、この「呼吸力」に切り替えるのである。何十年も使っていた力を、異質である「呼吸力」に変えるのは至難の業である。しかし、これは上達のための基準であるから、避けることはできないだろう。

異質の「呼吸力」に変えようとすると、それまでの力が使えないので、当初、力は当然弱くなるし、技は下手になったと感じるだろう。多くの人はそれが我慢できず、腕力にもどってしまうので、元の黙阿弥になってしまうようだ。

また、「呼吸力」の要領が身についても、以前のようなパワーを出すのには時間がかかる。やはり、さらなる忍耐と努力が必要である。

しかし、忍耐と努力によって、小さかった「呼吸力」は大きくなっていくはずである。これが第一番目の上達の基準であり、稽古の趣旨となる。つまり、「呼吸力」がついたかどうか、どれだけついたか、ということである。

上達するために、そして稽古の趣旨は、まずは「呼吸力」を養っていくことになるだろう。

二つ目は、「法則」の発見とそれを身につけていくことである。合気道の技は宇宙の法則を形にしたものであるから、技には法則がある。その法則を見つけていくのである。そして、それを稽古で試行錯誤しながら身につけていき、業と技に取り入れていくのである。例えば、陰陽、十字、天地に息を合わせる、等などである。手足は左右陰陽交互に規則的に使わなければならないし、手でも足でも十字につかわなければ、技にはならないはずである。

合気道の技の法則は宇宙規模であるから、法則は無限にあるだろう。これをひとつずつ見つけ、身につけていくのである。法則を見つけていくことが、上達になるはずである。つまり、上手とは法則をたくさん知った人、身につけている人、ということになる。また、上達したということは、新しい法則を見つけて、身につけたということになる。

もちろん、一人ですべての法則を見つけることや、身につけることは、難しいだろう。やるだけやって、あとは後進にお願いしなければならない。

稽古の趣旨である上達の基準とは、簡単にいうと、「呼吸力」を養成することと、「法則」を身につけていくこと、と考える。