【第350回】 大いに技を盗め

武道では、技は盗め、といわれている。つまり、技は教えてもらうものではない、ということである。これは、理にかなっている。教えてもらうとしても、先生が教えるレベルに教えられる方のレベルが達していなければ、言われても分からないだろうから、技は身に着かないことになる。レベルに達していれば、技が身に着くこともあるだろうが、おおかたはミスマッチになるだろう。教わる方がわからず、できず、では、教える方は教え損ということになりかねない。

かつて本部道場で教えられていた有川定輝師範は、「『練習』では指導できるが、元来『稽古』は指導するものではない。合気道は自発性がなければ前進がない。」(「有川定輝先生追悼記念誌」)と言われている。

他人から技を盗むとは、盗む方のレベルでわかる部分を盗むわけだから、身に着くことになるわけである。盗む方のレベルが低ければ、低いレベルのものしか盗めないが、それでも繰り返して盗んでいけば、やがては大きい財産が蓄積されることだろう。

合気道の技は、宇宙の営みを形にしたものであり、宇宙の法則を持つものである。合気道の技は人が創りだすものではなく、すでにある法則を形にした「技」として、身につけていくことになる。従って、宇宙の法則を自分で発見し、試行錯誤し、技として身につけていくのは、時間がかかるし、手間もかかり、大変である。この短い一生をかけても、一人でやり遂げるのは不可能であろう。それならば、他人から盗んだ方がよい。ビジネスの世界と違い、コピー問題はないどころか、古今東西の武道家は、コピーしてもらうことを名誉と思っているようである。

しかし、技を盗むのも容易ではないだろう。盗むにも、盗むだけの実力がなければならないのである。もちろん、実力のある名人や達人は、他人の技を一瞬見ただけで、すべてを見とおしてしまうことだろう。

盗むためにも、自分のレベルアップをはからなければならないことになる。技を盗むためには、自分のすべての力を結集しなければならないから、いろいろな分野の勉強をしなければならないし、体のすべての部位も、鍛えていかなければならないわけである。
因みに、技の稽古を見学して精進する稽古法があるが、それを「見盗り稽古」という。見て技を盗むのである。

日本における半導体研究の草分けと言われる菊池誠氏は、アメリカの半導体の技術の真似をしているのではないかと批判するマスコミに対して、真似といえども容易ではない、と次のように言っている。「革新的な技術はただまねをするにさえ、社会の潜在的な力を要するものだ」

よいと思う技は大いに真似し合い、大いに盗み合えばよいだろう。