【第348回】 受けと捕りのせめぎ合い

合気道は、相対で受けと捕りが交互に平等に、示された技の形を稽古しながら上達していく武道である。強いも弱いも、また、古いも新しいもない平等主義で、平和主義の稽古法である。

初心者にとって受けが大事なことは、誰でも体験することであろう。前受け身、後ろ受け身、そして小手返しなどのとび受け身をなんとかとりたいと思い、自分で転がったり、先輩などに投げてもらったりしたはずだ。

受け身が取れるようになると、うれしいと思うものだが、自分が相手に技をかけようとすると、どうしてよいかまだ分からないものだ。

受け身もとれるようになり、技の形を覚えると、今度は受けよりも相手を投げたり抑える側である捕りの方に重点が移る。受けの順番を早く終わらせて、捕りで技をかけたいと思うものである。

それは、投げられるよりも投げる方が面白いだろうし、研究もしやすいだろうから、仕方がないというか、自然であるだろう。だが、問題はそのために受け身をしっかり取らず、雑に取ったり、手を抜いてしまうことにある。例えば、しっかり打ったり、持たなかったり、捕りの動きとは関係なく、自分から倒れてしまったり、逃げてしまったりしてしまうことである。

受けがしっかり受けを取らないと、捕りは正しい技の練磨ができないし、その稽古が武道にならないのだ。例えば、二教裏をかけようとすると、痛いか怖いからか自分からしゃがみこんでしまったり、三教をかけられて背中を見せるように逃げたりする。また、しっかり打ったり、持ってくれない。そうなれば、捕りとしては違った技をつかわなければならいことになり、正しい練磨ができないことになる。

また、武道にならないというのは、捕りと受けの武道的な緊張感がなくなることである。

受けとは、捕りに攻撃する役割といえよう。最初だけでなく、技がおさまるまでの最後まで、攻撃する役なのである。途中で、相手にスキを見つけたら、ここで当て身が入るぞと、そこと相手に気持ちを送るなど、気を張っていなければならないし、捕りはそうならないように、スキをつくらないよう技をかけなければならない。

この受けと捕りのせめぎ合いが緊張を生み、武道になるのである。捕りがどれだけ稽古になるかは、受けがどれだけ真剣に取りの役を果たすかということになろう。捕りとのせめぎ合いになるよう、捕りがしっかり技をかけ、受けは受けをしっかり取っていきたいものだ。