【第32回】 一日一つ

一日一日は着実に過ぎて行く。合気道の稽古もただ漠然とやっていれば、時間だけがどんどん経っていくだけである。人間は多くの錯覚をするが、稽古での最大の錯覚の一つに、稽古の日数を重ねれば上達するだろうという錯覚がある。その原因としては、稽古を始めた初心者の時点ではそれが正しい事なので、つい高段者になっても通用すると思っているからではないだろうか。

合気道では、試合で相手に勝つためや、護身で相手をやっつけるために稽古をしているわけではない。だからこそ、それほど多いとは言えない基本的な技を、ただ坦々と稽古していくのである。具体的で直接的な目的がないのに技の稽古をするのだから、ある意味では合気道の稽古は誰でも容易にできるが、武道本来の厳しい稽古をするのは難しい。技を掛け合っても、相手が適当に力を抜いたり、受けを取ってくれれば、上手く技が掛かったと思うことになってしまう。しかし、このような和気藹々の稽古がいつも出来るわけではなく、時として相手が力いっぱい持ってきたり、受身を頑張ったりするものだ。高段者になればその頻度は増えてくるだろう。

初心者はいいとしても、高段者は相手に受身を期待してはならない。いかなる攻撃に対しても、合気道の理にかなった技や体の動きで相手を制しなければならないのである。勿論、これは容易なことではない。何故かというと、技がうまく掛かるためには、そのために必要不可欠の多くの技の使い方や体の使い方の要素があり、その必要不可欠の要素が上手く使われていなければ出来ないからである。
例えば、一つの技が決まるために最重要な必要要素が10あるとして、その内の9つが出来ていても残りのひとつができていなければその技はできないことになる。つまり、稽古とはその技の必要不可欠の要素を見つけ、そして身につけていくことであろう。しかし、この要素は無限にあるようなので稽古には終わりがないことになる。

それ故、一回の稽古(道場および自主稽古でも)で最低一つはその要素を見つけ、身につけるよう心掛けて稽古することが大事である。稽古で何も発見がなければその稽古は失敗である。

今日、技が上手く出来なくても、何か一つでも新しい要素を見つければ、明日も見つけられるだろうし、そして来年、10年後にはその技ができるようになるだろう。特に失敗した技からは、その原因を追究し、その解決策を考えると、重要な要素が分かるものだ。まさに「失敗は成功のもと」である。

合気道を理解するのは、技を通してしか出来ない。焦らず、一つ一つの要素を着実につぶしていくことである。