【第318回】 技の練磨は自分たちで

合気道は通常二人で組んで、交互に技をかけたり受けを取る相対稽古法であるが、老若男女、初心者など、誰にでも無理なくできる素晴らしい稽古法だと思う。 初心者はどのように動けばよいのか、技をどうつかえばよいか、すぐには分からないだろうが、受けの相手に導いてもらったり、相手のやるようにやっていけば、だんだん身についてきて、少しづつでも上達するものだ。

稽古になれて、体もできてくれば、今度は技をかけられるようになる。自分の技をかけた通りに、相手が倒れたり崩れたりしてくれると、自分の上達や、あるいは未熟さもわかってくる。

そうやって長年稽古をやっていると、体ができてくるし、技の形も身につくので、自分は上達したと思うようになるだろう。

確かに、ある段階までは、稽古をただ続ければ自然と上達するものである。しかしながら、ある段階からは、稽古をただ続けても上達しなくなるのである。

もちろん上達していくためには、稽古を長く続けなければならない。つまり、稽古を続けることは、初めの段階からある段階までは、上達する十分条件である。しかし、ある段階からは必要条件ではあるが、十分条件ではなくなるのである。

それでは、ある段階とはどのような段階かというと、ある程度の基本の形(技の形、例えば「小面打ち入身投げ」)を身につけ、合気の体ができてきた段階といえるだろう。いわゆる形稽古の段階である。この段階までは一所懸命にやっていけば誰でも上達するし、大体は長く、つまり早く始めた者が優位になるはずだ。

さて、ここまでは誰でも来られるが、この次の段階に入るのが難しく、苦労するようだ。その段階とは、形稽古から技を練磨する技稽古の段階になるのである。

合気道は技の練磨を通して上達するので、技を練磨しなければならないが、技と形を混同していることに問題があるといえる。例えば、先述の「小面打ち入身投げ」は、形であって技ではない。

しかし、難しいのは、合気道の形は技で構成されていることである。だから、形を稽古していても、無意識のうちに技の稽古もしていることになる、ということである。

それなら、形稽古をし続ければよいのではないかということにもなるだろう。それも正しいと思う。実際、開祖がおられたころも、現在の形稽古をしていたわけで、それでも超人的な力量をもった方々が生まれていた。開祖の直弟子で本部の師範をされていた方々を思い出せばよいだろう。

開祖がおられた頃までは、誰でも形稽古をしていけば、確かに精進、上達ができたわけである。だが、現在、形稽古だけでは上達が難しいとなるのは、何故なのだろう。

考えるに、開祖が居られるのと、居られないことの違いではないかと思う。開祖はそれだけの摩訶不思議な力をお持ちだったし、我々稽古人にその力を下さっていたのであろう。もし開祖が今もお元気で、我々をご指導くださっているとしたら、形稽古を一生懸命にやっていけば、どんどん上達するはずである。形稽古の形の中にある技を自然に身につけることができるはずである。形稽古は即、技の練磨になるはずである。

しかし、開祖はもう居られない。技の練磨は自分たちでやっていかなければならない。