【第314回】 形稽古から技稽古へ

合気道の相対稽古で相手に技をかけるとき、うまく技がかからない場合がある。それには理由があるわけだが、それは一つではなく、幾つかの複合的な理由によるものといえよう。上手な人はそれが少なく、初心者はそれが多いということになる。

通常は相手が受けを素直に取ってくれるので、技がうまくかかって、問題がないと思っているものだが、体もできてきて、力がついてくると、相手が意識してくるようになる。力負けしないように力を入れてきたり、やりがいのある相手として思い切ってかかってきたり、どのぐらい力があるのか試しにきたりする。

合気道で相手がどのぐらい実力があるかは、手首を掴んだ時にだいたいわかるものだ。手首の太さと弾力と吸着力である。実力がついてくるに従い、手首や腕は段々太く、そして丸くなってくるし、筋肉に弾力が出てき、そして筋肉が骨と別々に動くようになってくる。

合気道の稽古をしていくと、ここまでは誰でも来ることができるだろう。ただ、手首や腕がいつ、どれだけ太くなり、弾力性があるようになるかは、本人の体質と稽古量による。

手首と腕ができてくれば当然他の部分もそれなりにできてくるわけだから、合気道の体ができることになる。

そこで強くなった手をつかい、体をつかう稽古をするようになる。細い、力が出ない手で技をかけていたときとは大いに違い、力いっぱいバンバンやることになる。相手は倒れるし、稽古は楽しいものだと思うだろう。

しかし、世の中にはいろいろな人がいるもので、稽古相手にも力持ち、敏捷な人、感がいい人、頑張るのが好きな人、負けず嫌いの人等などがいる。そういう相手とやる時に、相性が悪いからとか、大きくて力がありそうだからなどと、平常心を失い、がむしゃらに力を込めてやっても、だいたいはうまくいかないものである。

この段階でのよい稽古をするためには、まず、基本にもどることであろう。まず、誰もが合気道の稽古に来ているわけで、喧嘩や争うためにきているわけではない。つまり、姿かたちが違っても、体力、国籍が違っても合気道の同士、仲間であるということ、合気の道を求めているということを、再認識することである。

また、だれでも自分が上達するように稽古しているのだから、相手が力を入れてきても、頑張っても、自分のための稽古になると考えてやることである。

さらに、うまく技がかからない相手にも、感謝することである。「失敗は成功のもと」である。技がうまくかかった(と、本人が思っているだけだが)稽古からは、あまり得るものはないものだが、うまくいかなかった稽古や、その相手からは、大事なことを学ぶことができるはずだ。だから、なるべく自分の苦手な相手と稽古をするようにすれば、それだけ「成功のもと」が得られることになる。

このように、技がうまくかからないことを経験していくと、あることに気づいてくるはずである。それは、腕力で相手を倒すことは難しいということである。これに気づけば大進歩といえよう。

実際にそうなのだが、相対稽古で受けと取りの役割に応じた稽古をしていると、現実を見失ってしまうのであろう。形をなぞった形稽古をしているわけだから、ちょっと頑張りあえば、腕力、体力のあるものが有利となる。これが分からないと、合気道を何年もやっているのに、ちょっと相手に力を入れられると技がかからなくなるとぼやいたり、極端な場合は、先の稽古に希望をなくし、稽古をやめることになる。

しかし、実は、ここまできたことは、大きな上達なのである。自分の腕力の限界を知ったわけだから、腕力もつき、それをつかっていることになる。

合気道にも力は必要であるし、あればあるほどよいはずである。合気道には力は要らないというのは迷信である。武道で力が要らないなどということはないし、開祖も力を入れるな(力むな)とはいわれていたが、要らないとはいわれておらず、逆に力自慢をされていたぐらいである。

つまり、ここから技の稽古に入れるのである。技の稽古とはどのような稽古なのか、それまでの形稽古とどこが違うのか等は、次回としよう。