【第308回】 習う

人は成果が上がるように、一生懸命努力する。成果が希望通り、思い通りに出れば、うれしいものだ。その喜びのために、一生懸命になるのだろう。

合気道での相対稽古では、合気道の技の形の中で技を遣って、相手が喜んで倒れてくれれば、うれしいものである。形から外れていて、技をつかうのでもなく、腕力でねじふせて倒すのでは、本当の喜びはないはずだ。

しかし、このことを頭で理解しても、自分の心身で再現するのは容易ではないだろう。合気道も武道であるから、このようなことは、手取り足取りしてまで教えてくれる人はいない。自分で見つけて、会得していくしかない。ただ、以前のように真の名人・達人がいて、師として一対一で教えてくれるならば、会得することはできるだろう。

合気道の形をそこそこ覚えることには、問題ないだろう。形を教える人や教えたがる人は多いからだ。しかし、技はそうではない。技は形がないもので、目に見えにくいし、手だけではなく体全体を有機的につかわなければならない。自分以外の天地・宇宙の力をお借りしなければならないことなど、複雑怪奇で、そうやすやすとは示せない。

しかし、それでは技を覚えること、会得することはできないことになる。そうすると、本当の稽古での喜びを諦めなければならなくなる。ところがどっこい、合気道の相対稽古でも技を覚える方法はある。

まず、原点に返ることである。初心に戻ることである。入門したころは、先生や指導者のいうこと、やることを素直に受け入れて習っていたはずである。一挙手一動見逃さないように、そして、それを身につけようと習っていたはずである。

我々が入門したころは、開祖の直弟子である師範が、月曜日は誰先生、火曜日は誰先生と、週単位で毎日代わる代わる教えておられたので、毎日その師範のやり方で稽古していた。当時の師範は個性が強く、やり方、考え方は相当違っていたが、その時間は他の先生のことを忘れ、そのやり方に集中してやったものだ。その結果、どの先生のやり方も身につけることができたのである。

稽古時間が終わった後で、先輩方や我々は、それぞれの先生の真似をし合って楽しんでいたものだ。技の上手な先輩ほど、その真似はうまかったのを覚えている。しかし、大先生(開祖)の流れるような技の真似をしていて、大先生に見つかり、大先生からみんなが大目玉をくらったこともあった。

上達するためには、習わなければならない。まねすることである。

辞書を見ると、「習う」と「倣う、慣らう」は同源であり、意味は

  1. あることを手本として同様に行う。まねる。
  2. 知識や技術を他人から教わる。
  3. (手本を元として)繰り返し練習・学習する
等とある。

さて、相対稽古で上達するような稽古であるが、要は、相手から「習う」(倣う、慣らう)ことである。相手が上手なら、受けでじっくりとそのやり方(体の使い方、息の使い方)を盗み、自分の番でそれを真似してやってみるのである。これをする人は、必ず上達するようだ。

しかし、習う、真似するのはそう容易ではない。なぜならば、自分のレベルでしかできないからである。レベルの低いうちはそれが中々見えないし、まねることも難しいものである。

しかし、慣れてくると、相手の動き、呼吸、考えを容易に盗めるようになる。こうなると、上手の人とはもちろんのこと、初心者が相手でもいろいろと盗めるようになる。初心者とでも稽古できるようになると、相手が誰であっても、やる気がある相手となら稽古になるようになってくるのである。

相手が誰であろうと、習うことができるようになるということは、自分自身から習うことができるようになるということである。もう一人の自分が先生となり、相手を通して試行錯誤し、自分自身で試し、善し悪しを判定し、改善していくのである。ということは、最終的に習う相手は、自分自身であるといえよう。

そのためにも、また、さらなる上達を望むにも、もう一度、初心に返って「習う」ようにしたらどうだろう。