【第287回】 形稽古と技の練磨

合気道が世間に普及したのは戦後のことであるから、半世紀ほどしかたっていないわけだが、合気道の普及ぶりは目を見張るものがある。それも日本国内だけではなく、世界中で普及している。

この普及の理由は、卓越した理合、宇宙感、宗教観などと、老若男女、年齢を問わず、誰にでも、危険を冒さずに容易に稽古できることであろう。

しかしながら、入門者が多く、合気人口が多い割には、30年、40年と長く続く人が少ないのが残念である。家庭の事情や経済事情で稽古を中断しなければならないのは仕方ないとしても、見ていると、他に二つの理由があるように思える。

一つは、怪我や膝・肩・腰等を痛めてしまい、稽古が続けられなる。
二つ目は、自分のかける技に限界を感じて、稽古を続ける意欲がなくなってしまう。

合気道の稽古を止める二つの理由の元は、同じだと考える。それは一言で言えば、正しい技の練磨をしなかったからではないだろうか。無理な体遣いをし、体を痛めてしまったり、または上達がないので、明日に希望がなくなって止めてしまうのである。稽古を続けるという事は、明日の進歩、変化に期待できるからであろう。明日に上達進歩がないとしたら、来年、5年後、10年後・・・にも希望がないので、やってもしようがないということになるだろう。

合気道だけでなく、他の武道や武術でも、技を効果的に会得するために、形(かた)を通して稽古する。これを形稽古という。形稽古とは、「あらかじめ順序と方法を決めて練習すること」(講道館)である。

合気道では、形とか形稽古という言葉はつかわないようだ。唯一、「合気の稽古はその主なものは、気形の稽古と鍛錬法である。気形の真の大なるものが真剣勝負である」というところで、形という言葉を使っているぐらいであろう。

合気道は、技の練磨を通して精進するのだが、それは、いわゆる形を通しての形稽古で練磨していくしかないし、実際にそうしている。

しかし、ここに稽古を中断させる魔物が潜んでいる。それはこの形稽古を技の練磨と勘違いしてしまうことである。つまり、形稽古を続ければ合気道が上達し、技が効いて、相手を投げたり抑えることが容易にできるようになる、と思ってしまうのである。

しかし、どっこい形稽古をいくらやっても人は倒れないのである。形で人は倒せないのである。(注:合気道では、相手を倒すのではなく、相手が自ら倒れるようにならなければ、技が効いたことにはならない)

人が倒れるのは、技である。宇宙の条理に則った技によって、相手は肉体だけでなく、こころから納得して倒れるのである。宇宙の営みと一体化している技だから、相手とも一体化できて、相手とひとつになることができるのである。そこには、勝負や争いはない。

もちろん形は大事であり、形稽古も大事である。あらかじめ順序と方法を決めて練習する形の中で、技を練磨できるのである。形とは、技を効率的に伝授するための宝箱ということになる。この宝箱にはそれぞれの形が効果的に伝えるべく、技が入っているのである。

形稽古を通して、この宝箱の中から宝の技を見つけ出し、会得して行くのが、技の練磨ということになるだろう。

そして、少しでも多くの技が入って形になるように、形稽古を続けていけば、形稽古と技の練磨が十字に絡み合い、相乗効果で共に上達していくことになるだろう。

これが、技の練磨をしていく合気の道ではないだろうか。この合気の道にのれば、よほどのことがなければ、体を痛めることも少なくなるだろうし、もはや修行を中断することなどできなくなるはずである。