【第283回】 研 究

合気道に入門する目的は人によって違うが、多くの人は体力増進や健康保持などの目的で、体を動かして運動するためであろう。この忙しない世の中では、頭は使うが体を動かすことが少ないので、体と精神のバランスが崩れる傾向にあるから、なにかの運動をしたくなるのだろう。運動は合気道だけでなく、他の武道やスポーツの道場やジムに通ったり、自宅の周りを気ままに走ったりすることもできる。

人には肉体的エネルギーと精神的エネルギーがあって、そのエネルギーを使わないと満足できないのではないかと思う。頭を使う仕事をして体を動かさないと動かしたくなるし、逆に肉体的な仕事をしていると、精神的なエネルギーが反乱を起こし、落ち着かなくなったりする。どれぐらいの肉体的エネルギーや精神的エネルギーがあるのか、また、その両者の割合などは、人それぞれ違うので、自分で満足できるように調整しているはずである。

合気道の稽古の目的を体力増進や健康保持の運動でやっていれば、それはそれでよいのだが、相対で技の鍛錬をする稽古では、どうしても技がうまくなりたいし、なんとか相手に決められないで、相手に技をかけたいと思うだろう。入門時には、体力増進や健康保持の運動が目的でも、だんだん技の上達、合気道の精進へと変わってくるものだ。

技の上達や武道の精進をしたいとなると、合気道の稽古はそう容易ではなくなる。容易ではないというのは、ただ稽古を続けているのでは駄目だということである。もちろん稽古は続けて一生懸命やらなければならないが、さらなる必要事項があるのである。

一つのものをつくり上げていくためには、やるべきことがある。学問、例えば、経済学には、経済史、経済論、経済政策など、歴史、理論、政策の分野があり、その分野のどれをやるにしても、すべての分野をある程度は勉強しなければならない。これを研究というはずである。研究とは、真理や理論を明らかにするために、よく調べたり深く考えたりすることである。

合気道にも、研究が必要である。合気道の歴史、合気道に関連する武道や神道などの歴史、合気道の理論、例えば、技の理合いなどである。

この合気道の研究は人文学的研究であるが、さらに合気道を科学的方法で研究していかなければならない。科学的方法とは、「物事を調査し、結果を整理し、新たな知見を導き出し、知見の正しさを立証するまでの手続き」、また「考え方や行動のしかたが、論理的、実証的で、系統立っているさま」であるという。

合気道で一番大事なことは、自分がつかう技である。いくら歴史を知っていても、また、理論がすばらしくても、技がそれに見合っていなければだめだということである。だから、相対の稽古相手や第三者は、技を見てその人の合気道のレベルを判断する。話だけでその人の合気道のレベルは評価しない。とはいっても、自分がつかう技には理論建てが欲しいものだ。

合気道とは技を練磨して精進することであるが、研究は技ではじまり、技で終わることになるだろう。

まず、技の形を通して技(技要素)を見つける。はじめの内は技など考えないし、技があると思っても何も見つけることが出来ないものだ。まっ暗闇にあるときに何かが閃き、これが技ではないかと思うことがある。自分の直感と想像力から来るのだろう。これが技の発見というところだろう。

次に、その発見した技を別の人達に試してみる。その技が効くようなら、正しい技であるはずである。だが、この発見した技は、自分の得意な技の形(例えば、片手取り四方投げ)でのみ使えるような、まだ孤立したものであるはずである。

この孤立している技を、他の取り(攻撃法)やいろいろな相手に試し、それがいかなる取りでも、どの相手でも有効であることが立証されれば、点でしかなかった技が線や面へと、次元を拡大することになる。

技は宇宙の法則に合っているといわれるので、正しい技なら法則性があるはずである。そこで、その技の法則を見つけなければならない。法則性のない技は美しくもないし、説得力にも欠ける、破壊の技となってしまうだろう。

宇宙には法則があって、その法則で営まれている。技は既に存在するその宇宙の営みの法則に合わせたものでなければならない。それは例えば、十字、陰陽などである。

次に、その法則が正しいのかどうかを立証しなければならない。そのために、いろいろな相手や取りで稽古して、試してみなければならない。

その法則でかけた技が有効なら、その法則は正しいと立証されたことになるはずだ。後は、この法則に従って技を使っていけばいい。そして、さらに新しい技、新しい法則を探していくのである。これが、合気道の研究ということになるだろう。

技は宇宙の営みを形にしたといわれるから、無限にあるはずである。合気道の研究には限りがない。佐々木合気道研究所もまだまだ研究が続くだろう。