【第261回】 宇宙と合気道の螺旋(らせん)

開祖は「円の動きの巡り合わせが、合気の技であります」(「合気神髄」)と言われている。技は、複数の円の動きの組み合わせと連動でつかっていかなければならないことになる。自分の手首、肘、肩、肩甲骨、腰、膝、足首などの縦の円、これらを支点とした手先の動きの横の円、これらの相手の縦と横の円、そして、これらの相手の円と自分の円がひとつになった円がある。まさしく「円の巡り合わせ」である。

開祖が言われている「円」とは、日常的な意味の360度の角度を有する円周という意味ではない。その一部の角度を有するものも、「円」と言われている。そしてもう一つの「円」の意味は、「螺旋」ということだろう。

円と螺旋の違いは、円は二次元でも三次元でも一周すると必ずスタート点に戻ってくるが、螺旋は二次元ではスタート点に戻ることもあるが、三次元では決して同じところに戻らないことである。

合気道の技は、円の動きの巡り合わせで掛けていかなければならない、と開祖が言われているわけだから、この「円の動き」や「螺旋の動き」は宇宙の営みであり、宇宙の条理や宇宙の法則と言うことになろう。

開祖は「(宇宙である)タカアマハラのラの一言霊が六言霊を悉くふくめて天底から地底へ、地底から天底へ、らせんを描いて常に生命をたどっているのです」と言われている。(「武産合気」)

技を遣う場合も、手を螺旋に遣わなければ折れ曲がりやすいし、力も出ない。腕や脚や体幹の筋肉も、力を出すところは螺旋に巻きついている。もちろん、体の部位々々を十字々々で遣うことによって、円く動かなければならない。

合気道は技の練磨を通して精進していくため、同じ技を何度となく繰り返して稽古することになる。50年も稽古を続けていれば、技によっては数万回、数十万回繰り返し稽古したことになるだろう。

世間から見れば、同じことを繰り返すよりも、新しい技を覚えた方がよいだろうし、またその方が上達するだろうと思うのではないだろうか。しかし、この稽古法に、宇宙の法則「円」「螺旋」があると思う。

同じ技を繰り返すということは、同じ技をやるわけだから、初めと終わりがある。技の形は決まっているわけだから、「円」と言えよう。故に、稽古そのものが「円」である。

しかし、繰り返してやる稽古が「円」のままでは、進歩がないことになる。稽古も「螺旋」にならなければならない。「螺旋」であるから、進歩になるのである。同じ技の稽古をやっても、前には分からなかったことが分かったり、できなかったことが少しできたなど、前と何かが違っていれば「螺旋」の稽古をしたことになり、進歩したことになる。そうでなければ、同じ円のままで、進歩はなかったことになる。だから、円のままでいれば、進歩上達はないことになってしまう。

どのぐらい進歩したかとは、言うならば、三次元における螺旋の任意点での高低の差ということになろう。つまり、この差が大きければ大きいほど進歩したことになるだろう。

人は、無意識の内にこの「螺旋」を求め、進歩することに期待して、繰り返し稽古しているはずである。なぜなら、これが宇宙の条理だからであろう。

人は、繰り返し繰り返し一日24時間を生きている。寝て起きて活動してまた寝るを繰り返している。これも「円」の動きといえるだろう。

生きることも、稽古と同じように同じことを繰り返してはいるが、「螺旋」と信じ、明日はきっと今日とは違い、何かいいことがあるだろうと期待しているはずである。明日に期待し、また5年後、10年後を夢見て生きている。だから、人は死を厭うのだろう。人だけでなく、動物でも死ぬことを厭うというのは「、螺旋」という宇宙の条理からくるのだろうと考える。これを生存本能と言うのだろう。

「円」だけで生きていれば自分は変わらないだろうが、「螺旋」で生きれば自分が変わっていくことになる。どうせ生きるなら、合気道の修行と同じように、「螺旋」で毎日を送りたいものである。

人は100年足らずで死んでいく。そして、新しく別の人が生まれて来る。その繰り返しが数百万年続いているし、これからも続くだろう。どうやら、これも宇宙の営みの一貫「螺旋」であり、宇宙の意志、宇宙の法則のようである。

人類は進歩しよう、進化しているようだ。人類は間違いなく「螺旋」で生きていこうとしている。ただ、少し進歩しただけなのに、自然を制覇したとか、宇宙を解明したなど、ちょっと傲慢になってきたのが心配だ。歪んだ螺旋になってきたのではないだろうか。