【第260回】 リスクと挑戦

合気道は、取りあえず技を練磨して、精進していかなければならない。技が練磨できるためには、技ができる体をつくっていかなければならない。だが技も体をつくるのも、容易ではない。

合気道の技は宇宙の営みを形にしているといわれるので、技を生み出す体も、宇宙の法則に則った動きが出来るようしなければならない。

技は仕組みであって、法則性があり、要素(業要素)で構成されていると言える。

合気道を創られた開祖植芝盛平翁は、合気道の技がどのようなものであるか示された。だが、そのように超人的な技がつかえるためにはどうすればいいのか、具体的な教えは残されなかったといってよいだろう。

しかし、有難いことに、開祖は、開祖がつくられた技を身につけたり遣えるようにするためにはどうすればよいかということを、『武産合気』や『合気真髄』(合気新聞)に残されている。これらに書かれていることは、開祖が考えられ、いわれたことだから、ここでいわれていることに従って稽古をしていけばよいと思う。

だが、問題は、開祖が言われていることが難しく難解であることである。技の練磨にしても、具体的な説明というものは一切なく、古事記を引用するなど非常に抽象的であるし、古事記の神様など、なじみのない言葉で説明されているので難解なのである。

さらに、重要なのは、開祖は技の練磨で上達していく合気道の道をはっきりと示されており、それがないと合気道ができないとも言われているのである。もしそのことを無視して修行しても、合気道の修行にならないということになる。

例えば、開祖は、「合気道は、まず天の浮橋に立たなければならない」といわれている。つまり、「天の浮橋」に立たなければ、技の練磨はできないということである。ということは、「天の浮橋」が分からなければ、そこに立つこともできないことになる。

しかし、「天の浮橋」がどこにあるのか、何であるのか、どうすれば会得できるのか等を、開祖は教えて下さらなかった。開祖としては、我々に示されたり、教えて下さったつもりかも知れないが、私の知る限り、これが「天の浮橋」であり、こうすれば「天の浮橋」に立つことができると示され、説明された先輩は居られないようだから、誰にも受け継がれなかったのではないかと思う。

そうすると、「天の浮橋」とは何ぞやということを、自分自身で見つけ、会得していくほかはない。しかし、容易ではない。答えが見つかるかどうか。それより答えがあるのかどうかが分からない。見つけたと思ってもそれが正解なのかどうかも分からない。それに、この新しい思想のためこれまでの技や業、体つかいを変えなければならないはずである。これは、大きな不安でありリスクである。
しかし、「天の浮橋に立たなければならない」はMUSTなのだから、リスクを覚悟で挑戦しなければならない。

開祖の姿や技を思い出したり、古事記を読み直ししたりして、技で試し、これが「天の浮橋」ではないだろうかと思えるようになってくる。といっても、外からは見えないし、稽古相手も気がつかない。自分にしか分からないだろうから、自分で判断するしかない。しかし、これがそうだろうと思うようになるまでには、試行錯誤を繰り返さなければならず、相当な時間がかかる。

「天の浮橋」を例にして、合気道の鍛錬にはリスクと挑戦が必要であることを説明したが、基本的に稽古は、すべてリスクと挑戦といえよう。

「天の浮橋」だけでなく、開祖が使われている言葉で、精進のために重要であるはずなのに、ほとんど分かってないものがある。例えば、「合気」「一霊四魂三元八力」「宇宙生成化育」「真空の気」「引力」・・・・・・等などたくさんある。

宇宙の営みである基本技の技遣いなども、宇宙の法則に則っているように練磨しなければならない。といっても、正解が用意されているわけではないし。誰も助けてくれず、ただ孤独に探求するしかない。しかも、答えを見つけたと思っても、それが正解かどうかも分からない。しかし、立ち止まらずに精進していくほかはないのである。

合気道の精進は、リスクを負う挑戦でもある。