【第258回】 武道としての稽古

合気道はますます普及しているようで喜ばしい。50年前は、合気道という名前は海外はいうに及ばず、日本国内でもほとんど知られていなかった。これからは、高校や中学校でも教えられるということなので、ますます合気道人口は増えることになるだろう。

50年前と今の合気道の稽古人と稽古は、だいぶ変わってきている。まず、稽古人の数である。かつては前受身、後受身、それに飛び受身まで自由にできたほどの人数しかいなかったが、今では前受身さえ難しいくらいの混みようである。

それに、道場の先輩のほとんどは、合気道を武道としてやりにきていた。技は効かなければならないという、柔術的な考えであったように思う。稽古する技も、首を捻って投げたり、首絞めに対する技など、今では危険と思われてやらないような技をよく稽古していた。また、当て身をいれなけば技は効かないという師範や先輩が多く、受けではよく当て身を入れられた。

今や合気道は、その名を世界に知らしめたといえる。老若男女、誰でもできるということで普及しているし、ますます普及するだろう。開祖もきっと喜ばれていることだろう。

しかし、合気道の教えでもあるが、物事には表と裏がある。これからますます普及するということは、ますます誰でも容易にできる合気道になるということである。怪我のない、痛くない、楽にできる、ということである。しかし、それは武道という要素がどんどん少なくなっていくことでもある。

合気道は武道である。武道ということを忘れた稽古にならないように、武道としての合気道を修練していくべきだと考える。

初心者には難しいだろうが、5,6段ともなれば、武道ということを意識して稽古してほしいものである。中学、高校生や初心者で、合気道を楽しむのは、それでよいだろう。だが、上級者は合気道は武道であるということを忘れないように稽古すべきだろう。そうしなければ、合気道は武道ではなくなってしまうのではないだろうか。少なくとも、武道としての最低の基本は守らなければならないだろう。

武道としては、武術的な側面ももっていなければならないと考える。武術的な考えと定義とは、基本的にはいかなる敵の攻撃にも対処し、いつでも敵を制することであろう。

敵は最初の一撃だけでなく、隙があればどこでも攻撃してくるはずである。もし相手の前に立てば、相手から打たれたり、蹴られたりするから、武術的には危険ということになる。だから、相手の前には立たないようにしなければならない。

受け身の側でも、相手の腕を諸手で取る場合、ただ取りにいくのではなく、顔面を当身で牽制し、入り身してから相手の手を取らなければ、相手に殴られたり蹴られることになり危険である。つまり、武道の稽古は、技を掛ける方も掛けられる方も、武道を意識して稽古をしなければならない。

技を掛ける場合にも、かつては必ず当て身を入れるように教わったものだ。一つの技には、最低でも三つの当て身が入ると教わった。今頃の稽古だと、知らない相手に当て身など入れると、相手がびっくりするか、気分を害するかも知れないので、相手を選んで、または仲間内で、この稽古をするとよいだろう。

これは、末端ではなく中心を遣う体の遣い方、陰を陽に変えての遣い方の稽古にもよい。理に合った当て身は強烈なもので、合気道の武道性をお互い(自分も受けの相手も)に確認できるはずである。

さらに、初めだけでなく、途中でも安心しないで、最後の最後まで攻撃相手に隙をつくらないことが、武道としての合気道である。隙をつくらないということは、言葉は悪いが、相手に触れた瞬間から離れるまで、相手を「殺している」ことであり、相手を生かさないようにすることである。

「殺す」ということを平和的、そして合気道的に言えば、「相手とむすぶ」ということでもある。引力で相手を吸収するのである。

抑えた相手から離れる最後の瞬間まで、気を抜いてはならない。特に、相手から離れる瞬間は、非常に危険である。相手に返されたり逃げられたりしないような武道的な勘と技が必要である。しかも、それは合気道の法則に則っていなければならない。例えば、相手の動ける円の外で抑えるとか、十字に抑えるとか、体重移動によって、左右交互にその力を相手に掛けていくとか、残心などがある。

これからの合気道は、ますます女性や老人にも無理なく、そして楽しめる合気道になっていくだろうが、武道的な要素も合気道に残って欲しいと願っている。