【第247回】 理論と実践

合気道に入門して稽古を始める若者は、体をいっぱいに遣って、疲れも知らないかのように稽古するものだ。少なくとも自分達はそうやったものだ。技がないのだから、先輩と一緒に稽古するには、体力とスピードと気魄でやるしかない。つまり、体を通しての実践で上達していくことになる。

しかし、年を取ってくると体が動かなくなってくるせいか、口で技を掛ける"口合気"になったり、頭で考える"頭合気"になりがちである。実践ではなく、理論の稽古となる。

一般的に、若者の時代は考えるより先に体が動いてしまうという実戦派で、年を取ってくると頭で考える理論派になってくる傾向にある。しかし例外もけっこうあって、年齢に関係なく実戦派と理論派があるだろう。

若者が理くつを述べて体を遣わないのも不自然でおかしいし、年配者が体力だけに頼って、理に合わないことをするのもおかしいものである。そこには、なにか理論と実践との融合がなければならないのではないかと考える。

司馬遼太郎は『花神』の中で、「蘭方医杉田玄白は、病理・生理・解剖といった基礎学問を医理と概括しているが、『医理に詳しければ、治療ができるか』という設問に対して「否」と否定しており、医理にいかに詳しくとも臨床(実践)はできない。それはちょうど馬術の本だけを読んで馬を御そうとするようなものだ」と、いっている。つまり、理論だけでは実践はできないといっているのである。それは合気道でも同じであろう。合気道の本を読んだり、DVDを見ただけでは、技は身につかないからである。

だが、「しかしながら逆に医理を知らない臨床家は信用できない、とも玄白はいっている。ただ経験だけでたたかう戦闘指揮官はたとえ勝利を得ることがあっても、きわめて危ない勝利である」という。つまり、実戦だけでも理論がなければ駄目ということである。

武道でも、いくら強くとも理を知らなかったり、理の背景がないものは、人に害を及ぼすなど危険なことが多いものだ。

理論も実践も大事であるが、それがそれぞれ独立していては駄目で、それを統合し、相関させて活用しなければならない。それをするのは「結局は、人なのだ」という。(同上)

「病理学そのものは、病気の治療にはとても役に立たないが、それを技術の裏打ちをして統合し、理論と技術をくるくると相関させてゆくのは結局個々の医師である。医師が悪しければ病理学と臨床技術はばらばらになる。 ですから、この一冊を読めば、病理学と医術(臨床医術)が統合されていてたいそう便利である、というような医学書は決して出現しないでしょう」と司馬遼太郎は、村田蔵六に言わせている。

合気道の哲学や理論は沢山あるわけで、どれを自分のものにするのか、それを技でどのように実践するかは、人それぞれで違ってくる。その理論をどれだけ上手く実践できるかは人、つまり人格によることになる。

合気道は技の練磨で精進するにあたって、体を遣っての鍛錬も必要であるが、理論の習得も必要である。また、理論の習得も必要だが、体を遣っての実践も必要である。実践には理論の裏付けがあった方がいいし、理論は実践で表現できなければならないと思う。

理論と実践をばらばらに扱うのではなく、表裏一体となって上手くくるくる相関させるようにしていかなければならない。だが、それを如何にうまくできるかは人格によるので、人格の開発もますます必要になるだろう。

合気道の素晴らしいのは、合気道をつくられた開祖の実践された技の人間離れした素晴らしさと、その深遠な理論の素晴らしさであり、それが絡み合っていることだろう。これは人類の財産であり、後の人類に残さなくてはならない。

参考・引用文献  『花神』司馬遼太郎著 新潮文庫