【第224回】 相手の中心と結ぶ

合気道は技の練磨を通して精進していくが、技はなかなかうまく遣えないものである。"うまく"ということは、相対稽古の相手にその技が効くことであり、自分で納得できるということだろう。

しかし、世の中には、多種多様なタイプの人間がいるわけで、それを想定して稽古をするわけだが、現実の稽古相手はなんとかなるとしても、超人的タイプ(例えば朝青龍)の人に技を効かせるのは、想像しただけでも至難の業である。

相手に技を掛けて納得できれば、技がうまく遣えたことになるだろうが、納得するかしないかの判断基準は何だろうか。一言で言えば、自然であるかどうかといえると思う。自然とは、多くも少なくもなく、無駄が無い、だから美しいし、そして正しく、説得力があるものである。いわゆる、真善美を兼ね備えていることである。また、この自然は、別の言葉で表現すれば、宇宙の法則、宇宙の条理に則っているということでもある。

技をうまく遣うためには、このように「自然」でなければならないことになる。相対稽古で受けをとるとき、下手な相手はこちらの末端を攻める癖がある。受けを取っていても、手首など末端が変に痛かったり、受けを取りにくく、気持ちもよくない。受けに不快な思いをさせるのは、まだまだ初心者ということになろう。

開祖の受けを取った先輩、先人の経験談によれば、大先生(開祖)は激しい技もかけ、大きい技や早い技もかけたが、受けを取って気持ちがよかったし、怖いとか危険であるなどとは思わなかった、ということである。おそらく大先生は相手の末端に力を加えたりはせず、身体の中心に力を加えるようにされたはずである。

相手に技を掛ける場合は、末端ではなく、体の中心を攻めなければならない。手で掴ませても、その手を攻めるのではなく、その手を通して体の中心を攻めるのである。

しかし、手から相手の中心を攻めるのは容易ではない。手と中心(腰腹)は、肘、肩、肩甲骨と分かれていて、本来は別々に動くものだからである。

掴ませた手で、相手の中心と結び、手の力をその中心に加えるということは:

一体化するということは、二人が一人になったわけだから、仕手(技を掛ける方)の思う通りに動け、技を自由にかけられることになる。手首や腕などの中心以外のところを攻めても、それが中心に繋がっていなければ一体化できない。

しかしながら、初心者には、相手の中心に力を入れるのは難しいから、受けが自分の中心に相手の力が乗るように導いてやるのがよい。相手の力を逃がしたり外したりせずに、自分の中心に導くのである。

技をかける自分がその感覚を身につけるだけでなく、受けも、攻められる自分の中心から抗力がでるので、自分の中心を鍛えることになる。

従って、技をかけるものと受けを取る双方が中心を意識して稽古をすれば、どちらにもよい稽古になるはずだ。第三者が見ても気持ちよいものである。これが自然であり、技を掛ける極意のひとつだろう。