【第200回】 道にのる

合気道は技の練磨をしながら精進していくが、そこには目標があるはずである。そして、その目標に向かって進み、その目標に少しでも近付こうとするのが修行ということになろう。

目標に近づくためには、稽古はその目標と結んだ線上でやっていかなければならない。その線から外れていれば稽古の意味がなくなることになる。合気道は試合もなく、勝負をするわけでもなく自由にできるので、何が間違いだということはないかも知れないが、それ故、かえってその線上で稽古をしていくのは難しいようである。

まず、合気道が求めている目標が難しい。その目標を開祖は言葉や書きもので残して下さっているが、我々にはなかなか理解できないからである。しかし、開祖が導いて下さった合気道の目標を少しづつでも理解し、身につけていかなければ、目標には近づけないし、進歩もないはずである。

合気道の求めているもの(目標)が難しいとか理解出来ないからといって、自己流で稽古をしていけば、真の目標との結びはないので、開祖が目指しておられる合気道とは違ったものになってしまうことになる。

目標と結んでいるのを、「道」にあると言えるだろう。合気の道にあるから、合気道を修行しているといえるのである。「道」は非常に細いようである。よほど注意しないと横道にそれたり、足を踏み外したり、行き止まりの道に入ってしまう。それを邪道というのだろう。邪道に陥らないように細心の注意が必要だ。

邪道に陥らないためには、まずはあるところまでは自分を捨てて、自分に湧き上がる欲望を抑え、我慢し、いわゆる王道を行くように努めなければならないだろう。つまり、先達の開祖に導いて頂くのがいいだろう。そして、開祖が言われたことが分かったと思ったとき、つまり「道」を見つけ、その「道」にのり、どんどん進みはじめたら、ある処から自分のものを出していけばいい。だが合気道の目標と結んだ「合気の道」を出てはいけない。

「道」は難しいものだ。自己流でめくらめっぽうやるのではなく、あるところまでは先達に導いてもらわなければならない。そしていつの日にか、自分でその道を進むのである。さらに、最後は自分で「道」を自ら開いていかなければならない。武道は孤独であるということである。

開祖も「すべての道はあるところまで先達に導かれますが、それから後は自分で開いていくものなのです」(合気真髄)と言われている。開祖は、後進者達に更なる合気の道を切り開いて欲しいと望んでおいでのはずである。それにはまず、開祖の残された遺産を少しでも沢山身につけることであろう。