【第171回】 出来ないところから稽古は始まる

合気道は、老若男女誰でも稽古が出来る武道である。試合も勝負もないので、体にやさしい。取り(仕手)と受けが交互に平等に交代するし、稽古する技も同じなので自由で公平である。

しかし、合気道の道を進むのは容易でない。合気道は技を練磨して進む道であるが、初心者はその技の型を覚えると、技が出来たと思ってしまい、技の練磨に至らないことと、技の練磨に入っても、日常の考えと体の遣い方をしてしまうので、技を身につけるのは容易ではないのである。

技が完全に出来るということは、人間には不可能であろう。出来るとすれば、神様だけだろう。完全にできるから、神様という。それを神業という。

合気道の技の型は誰でも容易にできるが、技は努力なしにはできるものではない。しかし型を容易に覚えられたから技も容易に出来ると考えてしまう。そのため、相手が少しでも力を入れたりすると、動けなくなったり、技が崩れてしまう。そうなると、自分の技の未熟さを棚に上げて、相手のせいにしたり、頑張るものではないと文句を言ったりする者も中には出てくる。
その内に何度かそのような経験をすると、自分は技が出来ないということに気付くようになるはずだ。気が付かなければそれまでである。

合気道の本格的な稽古は、この、自分は技が出来ないというところから始まると言えよう。それまでは「出来る」という前提で稽古をしていたわけであるが、今度は「出来ない」から再出発するのである。そうすると、何故できないのか、どこが悪いのか、出来る人とどこか違うのか、どうすればいいのかなど、考えながら稽古するようになるはずだ。そして出来るようになるために、ビデオや本を見て研究するようになるだろうし、先輩や稽古仲間の稽古を見て盗もうとするようにもなるだろう。他の武道や武術の演武を見たりもするようになるはずである。

合気道は「空の気」と「真空の気」が分からなければならないと言われるが、この「出来ない」という0(ゼロ)の時点から再出発するということは「真空の気」の真空に相当する真空状態に身を置くことになるといえよう。真空になって、自分を空っぽにすることによって、すべてのものを吸収できるようになるのではないかと考える。

出来ないのに、最後の辻褄だけ合わそうと、相手を投げたり抑えたりすれば、合気道とは違う道、「邪道」になってしまうことになろう。技が効かなかったら、相手に感謝し、出来なかったことを注視し、そして出来なかったことに感謝し、それまでのやり方を一時忘れてスタート地点に戻り、真空状態から本格的な技の稽古に再度挑戦することである。