【第170回】 今、出来なくてもいい

合気道は、技を練磨しながら進む道である。日頃練磨する技である基本技は、それほど多くないので、同じ基本技を何度も繰り返していくことになる。攻撃方法である「取り」のバラエティーは無限にあるとも言えるが、基本的な技の捌きは、正面打ちであろうと片手取りであろうと同じであるとも言える。

しかし、何度も繰り返し稽古しているはずの技が思うようにできないのである。力の強い相手にしっかり持たれたり、上級者に抑えられると、動けなくなったり、技がぜんぜん効かなくなるのである。それまで相手を気持ちよく投げ飛ばしていたのに、相手を思うようにできなくなるのである。

合気道には試合がないし、稽古でも強い弱いを決めるものではない。勝負の世界にある武道やスポーツに比べると甘い、楽な稽古であるようだがそうではない。合気道の稽古は非常に厳しいものなのである。

勝負もしないのに何故厳しいのかというと、合気道は自分との戦いであるからである。自分に打ち勝つほど難しいことはない。自分には謀略や策略は通じないし、駆け引きも出来ない。

合気道では、技の型の稽古をしているうちは、まだ本格的な稽古に入っていない。本格的な稽古は、技の練磨である。多少強く抑えられても、打たれても、技は遣えなければならない。しかし、技を上手く遣うのは容易ではない。幾つかの基本的な重要なファクターと、無限の精妙なファクターがあるからである。体勢、体や手足の遣い方、息遣い、意識の入れ方等などの大枠のファクターから、手先を反転々々させて遣うなど繊細なファクターまで、沢山あるのである。もし、ある技に10の重要ファクターがあるとして、その内の9つができても、残りの一つが出来ないために、その技が上手くできないことがある。

技の稽古に入れば、自分の未熟さが分かってくる。これまでは、相手が受け身を取ってくれていたのであって、技で倒れたのではないことがわかってくるのだ。そして、技をどうすれば効くように出来るか、そのファクターを探すことになる。

ファクターは自分自身で探すのが原則であるが、可能性があればすべてのものから探し出し、身につけていけばよい。ビデオ、書籍、師範の教え、先輩の技や教え等などから見つければよい。

しかしながら、本で読んでも、ビデオを見ても、また師範や先輩の教えを聞いても、すぐには出来ないものである。二三度繰り返して出来るものもあるが、重要なファクターはなかなかマスターできないものである。

出来るに越したことはないし、出来るように最善をつくすべきであるが、どうしても出来なければ、出来なくてもよいのである。読んだこと、見たこと、師範や先輩の言葉は、自分に記録されるはずだからである。いつかそれが必要になったり、自分がそのレベルに至ったとき、それが蘇ってきて、出来るようになるはずである。

一度聞いたことや見たことは、体に浸みこんでいる。逆に忘れようとするものでも、体のどこかに記録されているはずである。恐らくDNAにでも記録されるのだろう。しかも、それは自分だけの記録ではなく、人類の永遠の記録になって、後人の記録として残っていくことになるはずだ。

かつて大先生(開祖)が話されたことが、今になって思い出されるし、多少理解できるようになってきた。当時、大先生のお話はチンプンカンプンで、何も理解できず、右から左へ素通りしていたと思っていたが、今思い出されるのである。つまり、体に記録されていたのである。大先生のお話だけでなく、師範や先輩の教えなども、今頃になって分かって来るのである。

今、理解できなくとも、出来なくともいい。出来ないことは出来ないのである。出来ないものを無理してやろうとすれば、合気道の道とは違う道、「邪道」になってしまう。5年後、10年後にはきっと出来るようになると自分を信じて、正道の稽古をしていくことである。