【第17回】 楷・行・草書

習い事には、習う順序がある。習字では、楷書、行書そして草書と習っていく。これを逆にすると上手い字が書けず、かな釘流か自己流の字になってしまう。 合気道の稽古では、大勢の、そして異なるレベルの人たちが一緒に稽古するので、このようなシステムをとるのは難しいだろうし、開祖はよく、「合気道には形がない」といわれていたので、このような段階を踏むような稽古システムに重点をおかないのだろう。

しかし、合気道もある意味では習い事であるわけであるから、はじめはがっしりした稽古をゆっくりと正確にやり、それがある程度できてから、柔らかい流れるような稽古にもっていくべきであろう。

開祖も初期の写真やフィルムを見ると、相手に力いっぱいつかませてそれを押さえたり投げ飛ばしていたが、晩年は相手に触れさせもしないで投げ飛ばしていた。つまり、開祖も習字でいう、楷書、行書、草書という過程をふまれてきたわけで、はじめから触れたら飛ばしてしまうことはしていなかったわけである。

中国の武術である内家拳(ないかけん)では、同じ形を使って修練しても、修練の仕方が段階ごとに変わっていくと、『カンフーガール』(文芸社)という小説にあった。

それによれば、まず基本は、正確に形を覚えることである。距離が1ミリも狂わないよう、角度が一度も狂わないようにする稽古である。
二番目は、攻防の技術で、用法、使い方を覚える。仮想敵を想定し、一人で複数の敵と戦っているように演武する。
三番目は、動きと呼吸と気を一致させる。動くときは気が背中を伝導するので、その気が手のひらや指先に出ていることを感じるようにする。
四番目は、自分の存在する空間に充満する気を感じるようにする。具体的には、自分が深海で動き回っているような感じで空気の重い圧力を感じるようにする。
最後に、自分のすべての思考と感覚を忘れてしまう。一時間形を休まずに繰り返しても、全くなにも覚えていないような感じになる。つまり、自然と体が動くようになるということだろう。

晩年、開祖は、我々ががっしり掴かませたり打たせたりした稽古をしないで、軽い稽古をしていると、「触れたら飛ぶような稽古などするな!」とどなられ、その後、お説教を正座で聞かされたものである。晩年の開祖自身は、形がないというお言葉の通り触れたら飛ぶようにしか思えない技の域に達していたが、我々にはもっとがっしりした稽古をしなければならないと言われていた。

技は諸手取り呼吸法でできる程度のものしか出来ないものだといわれる。袴をはいた有段者なら、諸手取り呼吸法、座技呼吸法及び一教から五教、四方投げ、小手返し、入り身投げなどの基本技はきっちりとできなければ恥ずかしい。まず楷書の段階での稽古が充分できていなければ先へは進めないし、たとえ進んでも砂上の楼閣で行き詰ってしまうだろう。

しかし、ここ(楷書)だけに留まっているわけにはいかない。目標や段階は人によって違うだろうがまだまだ上の段階がある。最終の目標に向かって地道に段々と登るより仕方がない。