【第15回】 原理原則を求めて

合気道の稽古は、一般的に基本技を何度も何度も繰り返して練習する。40年も稽古をしていれば一つの技、例えば片手取り四方投げを取っても何万回もやったことになるだろう。
このように合気道は新しい技を覚えていく稽古法ではなく、基本技を何度も繰り返しながら、深く々々何かをもとめて修練するものである。
求めているのは人それぞれ違うであろうが、共通して言えるのは、技の稽古を通しての原理・原則の追求である。小さな視点では、合気道の技としての原理・原則であり、もっと大きな視点では社会でも、日本や世界にも適用できるものであり、時代がかわっても有効なものである。
一つの原理・原則はその技に適用できれば、他のほとんどの技に適用できるはずだし、社会や時代が変わっても適用できるはずだ。

稽古をはじめた頃は、誰でも滅茶苦茶な動きをする。無駄が多かったり、動きが不十分であったりである。稽古を重ねるうちに無駄な動きがなくなってきたり、不足の動きがカバーされるようになってくる。これはほとんどの稽古人にいえることなので、稽古には人を導く大きな流れがあるといえよう。これを道というのだろうし、この道は宇宙万有一系につながっている永遠不滅のものだと思う。

稽古で技が上手くかかるか、かからないか、あるいは相手も納得するか、しないかは、この道に内在する原理・原則に従っているか否かにかかっているといえる。
合気道の稽古とは、この原理・原則をもとめることである。この意識を持たないで稽古をしても、後になにも残らない。合気道をやめていく人の多くが原理・原則を見つけることができなかったようである。原理・原則は無限にある。原理・原則の追求に終わりは無い。