【第136回】 原点に戻る

ものごとはすべて、表裏で一対である。素晴らしいこともあれば、落とし穴もある。

合気道の基本技はそれほど多くないので、数年で覚えることができるといえよう。また合気道には試合がないし、稽古で争うものでもないので、自分が上手いと思えば、それでよいことになる。それで技を覚え、受身も取れるようになると、自分は合気道をマスターした気になるものだ。しかし実際には、古くから稽古している人などや力の強い人が少し頑張ると、技はそう簡単には掛からないものである。

高々5年や10年では、合気道が分かるはずがない。技をうわべだけでなぞることはできても、合気道についてほとんど何も分かってないようなものである。事実分かってないから技が掛からないのである。技は、合気道が分かっている程度にしか掛からないものだ。

基本技の触りができるようになった人に、合気道とは何か、合気とは何か、道とは何か、呼吸力とは何か、呼吸法とは何か、合気道と(合気)柔術との違いは何か、一教と二教の違いは何か等々と質問しても、恐らく答えられないだろう。それだけでなく、考えたこともないだろう。

基本技を覚え、受身をとって、合気の体がやっと出来たわけであるが、それはゴールに到達したのではなく、これからの本格的な合気の稽古へのベースが出来て、次へのステップへの出発点に立ったのである。従って、技を覚えて満足してしまうのではなく、次のステップへ踏み込んでいかなければならないのである。

次のステップを踏むということは、新たな次元の稽古をすることになるので、ゼロからの出発となる。合気道の上達のためには知らなければならないことや出来なければならないことが無数にあるであろう。上述のことなど、そのほんの少しの部分でしかない。だが、それが分からなければ、上達もないはずである。工学の世界では、理論だけでなく、その理論で実際にものが作れなければ「わかった」とは言わないという。合気道でも、自分が見つけた理論で技が効かなければ、「できた」とは言えないことになる。

ゼロからの再出発とは、稽古の原点に立つことであり、合気道の基本でもある。当初は弱くなるだろう。異質のことをやるのだから、仕方がない。しかし、この弱くなることが、上達、進歩であると思えばよい。進歩、上達の放物線が移り変わったのである。

新しいことをやる際には、覚悟がいる。弱くなる覚悟、新しい次元に迷い込むという覚悟、もしかすると間違った方に行くかもしれないという覚悟である。 しかし、その覚悟をもって、再スタートしなければ、次の次元での上達はないだろう。

次の次元の稽古ができたら、またその次の次元の稽古をしなければならなくなる。その都度、稽古は原点に戻らなければならない。「一教」一つでも、各次元で稽古のやり方は違う。等速直線的な稽古だけしていけば、腕が落ちることはないだろうが、上達のレベルは限られ、行き着く先が見えてしまう。何度も何度も原点に戻る稽古をしていけば、当初は腕が落ちるが、上達のレベルは前の次元が到達できるところの上に来て、そしてどんどん高く上がって行くはずであるし、どこまで上達できるか予想もできない。

どうなるか分からないから不安もあるが、どうなるものか楽しみでもある。だから稽古が続けられるのだろう。自分の到達点が見えたら、稽古を続ける必要はないだろう。