【第121回】 自分との戦い

スポーツは相手との戦いであるから、相手に勝つために練習をすることになる。合気道はスポーツではないので、試合はない。合気道は他人と戦うのではなく、自分との戦いである。自分の身体を鍛錬したり、技を磨いたり、知らないことを知るようにしたり、出来ないことをできるようにするなど、自分との挑戦である。これを合気道では、吾勝(あがつ)という。自分の使命に負けないようにするための戦いである。

もちろんスポーツでも吾勝の修練はできる。他人に勝つことや、試合を超越し、自分との戦いをすればいい。試合も相手もその手助けをしてくれるものと思えばいい。目的を手段として、考え方を変えればできるだろう。

自分と戦っている姿は、外から見ていても気持ちがいい。小さな子供が何かと真剣に戦っている姿には感動する。よちよち歩きの子供が走り出したり、自転車にはじめて乗れたとき、または、演武会で一生懸命動き回っているとき等。

大人はどうしても他人を意識してしまう。格好よくやろうとか、強いところ、上手いところを見せようとしがちである。これでは、他人(見ている人)との戦いになってしまうことになる。他人を意識した演武は、感動を与えないどころか、嫌味である。かつて何度か有川師範と合気道や柔術の演武会を見る機会に恵まれたが、我々が演武のたびに盛大な拍手をおくっても、有川師範は5,6回拍手することもあり、2,3回のこともあり、また全然拍手なしのこともあった。後で分かってきたのだが、師範はどんなに技巧がうまく、力強くやった演武ても、観客に見せようとした演武には拍手をしなかった。師範が拍手を多くおくり、評価した演武とは、自分との戦いを一生懸命にやった演武であった。これには、上手い下手や、強い弱い、古参新参など一切関係がなかったのである。

合気道は相対稽古であり、通常は二人で組んで稽古をするが、初めのうちはどうしても相手を意識しすぎて、相手を如何に倒すかと思ってしまい、相手との戦いになってしまうものだ。このような争いの稽古をしていると、当事者双方が満足できないだけでなく、それを見取り稽古などで見ている人もいい気持ちはしないものである。

自分との戦い、自分への挑戦で稽古をしていれば、稽古相手に押さえられ、決められ、倒されても、素直に参ったと思えるし、そうすれば相手の技を盗むこともできるようになり、気持ちがいい。またそれを見ている第三者も、ともに気持ちがいいものである。勿論、技をかける相手の取りも、気持ちがいいはずである。自分の使命の挑戦とその達成感こそが、人間最大の満足であろう。