【第113回】 陰と陽(いい面と危険な面)

合気道の修行は、一生ものである。数年で会得できるものではないどころか、決して完成することはない。ただ一日でも多く修練するだけである。体と頭が機能する限り修行を続ける、一生ものなのである。

稽古は長く続けなければならない。稽古をしなければ技の上達もないし、合気之道も奥まで入り込めない。しかし、稽古はただ漠然とやればいいというものではない。人が永遠に生きられるなら、その内に出来るようになるだろうから、何をどのようにやってもいいだろし、やり直しも効くが、人の寿命は自分が何かやろうとするには短すぎる。特に、宇宙や自分のことが分かりかけてきて、それから本当の修行ができるようになったと思ってからの残りの時間は、非常に短いといえる。心して修行をしないともったいない。

何かやるということは、目的があって、ある結果を求めるわけである。合気道の相対稽古で技の稽古をする場合でも、上手い技を遣って、上手く相手を倒そうとするわけだが、よほど注意してやらないと逆効果になってしまう。技をやることによって自分の「わざ」を磨くことはできる反面、もし自己流の、所謂邪道でやれば、ますます違った道を進むことになるし、場合によっては体を痛めることになる。木刀や鍛錬棒の素振りにしても、振れば筋肉や力がつくが、危険もある。下手に振る、例えば手先で振ったり、肩を抜かずに振れば、手首や肩を痛めることになる。何事にもいい面と危険な面がある。ただやればいいという訳ではなく、無理がないかどうか体に聞きながらやらなければならない。

合気道の重要な柱の一つは、陽と陰の思想ならびにその実践ということが出来るだろう。陽と陰とは、表と裏ともいえる。表とは見えるところであり、働いているところである。裏は見えないところ、今は働いていないが、次の働きのために待機しているところである。合気道の技には表と裏があるし、技は陰陽を駆使しないと出来ないようにできている。初心者は陽だけで技を掛ける傾向にあるので、技が決まりにくい。見えない、働いていない陰(裏)を意識し、その陰を陽にして使えればいいのだが、陽だけでやってしまうと体に歪みがでるし、体に無理な負担がかかるので、膝や腰を痛めることになる。そんな稽古を続ければ、体を痛めるために一生懸命稽古をしていることになってしまう。

ものごとは、やればよいというものではない。必ず陽と陰があるので、常にこのやり方でよいのか、陽と思うやり方をした場合、陰はどのようになるのか、危険はないのか等に注意してやらなければならない。間違ったことを長い間続けたとしたら、その修正・変更には3倍も10倍もの時間がかかるものだ。間違いには少しでも早く気がつくためにも、これでいいのかどうか謙虚に自分を見つめ、体の声を聞きながら稽古をすべきであろう。