【第106回】 上手とは複雑なことを簡単にする

道場の稽古もそうだが、稽古事は何でもはじめは下手で、だんだん上手になっていくものだ。二人の人を比べる、とこちらの方が上手くて、あちらの方が下手であると、誰が見ても同じように判断するはずである。一寸見ただけで上手と下手が分かるのは、何か上手下手の判断基準があるはずだ。

判断基準の一つに、動きに「どれだけ無駄があるかないか」があるだろう。下手は無駄な動きが多く、動き(業)を複雑にしていると言える。動く必要のないところを動いたり、手をむやみに振り回したり、無駄な呼吸を遣ったりしてしまう。その結果、体勢が崩れ、手足さらに業の軌跡が乱れ、息も乱れて、不安定になり、美しい姿とは程遠いものになってしまう。

合気道が求める「真善美」の「美」とは、無駄がなくて単純というであろう。無駄が無いこと、単純なことを「自然」という。業が自然であるということは、無駄がなく、単純であるという最高の褒めことばである。

合気道は「技の形(かた)」の稽古を通して修練するものであるが、「わざ」(技と業)の稽古の時だけではなく、常に無駄を省き、複雑なことを単純化することが必要なのである。

業にしても、初心者など下手なものは、一つの技をやるのに、息を2回も3回も吐いたり吸ったりするので、技ができないのは勿論、息が上がってしまう。一つの技を納めるのに、一呼吸でできるようにならないと上手くなれない。また下手なひとは、手足がバラバラに複雑に動いている。体幹と手足がしっかり結んでいないので、バラバラに動いてしまうのだ。だから、体幹を動かすことによって手足が動くようにしなければならない。開祖もかって、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」と我々の無駄を戒めておられた。

美しいことは無駄がなく、単純である。稽古は無駄を取っていき、単純化することとも言えるだろう。上手は複雑なことを簡単にするが、下手は簡単なことを複雑にする。