【第105回】 業が出来なきゃ、技が効かない

合気道は「技の形(かた)」の稽古を通して「合気之道」を進んでいくと言えるだろう。合気之道がどれだけ深く理解できたかは、技がどれだけできるかに掛かるといえる。技がきちっとできなければ、合気道のことは分かっていないと言ってもいいだろう。

技ができる、技が相手に効くためには、ます技を覚えなければならない。本来、「技」は先人が苦労してつくり上げたものであり、深遠なものであるので、そう簡単に身につくものではない。合気道は二人で組んでやる相対稽古なので、相手が受けをとってくれれば、自分は技ができたと錯覚してしまう。しかし、合気道の技は、5年や10年で会得できるものではない。

技には意味があり、哲学・思想がある。一教という技が何故、どのような状況で創られ、何故そのような形になったのか、そしてそれが人体にとって、人類や宇宙にとってどのような働きがあり、意味があるのかを、知らなければならないだろう。また、二教、三教、四教、五教との関係はどうなのかが分からなければ、技にはならないだろう。

たとえ技の成り立ちや意味がわかり、その技をなぞることができたとしても、技はできない。業ができなければならない。業とは、技を遣うための土台ともいえるだろう。武道としての基本的な体遣い、動きである。どんなに技のことが分かっていて、頭で技をなぞることが出来ても、体の筋肉ができていなければ、手足が自由に動かないのでは技は使えない。また、手足が連動して陰陽に使われなかったり、肩を貫かず、手と腹(腰)が結ばず、ナンバで動かない等々の業が使えなければ、技もかからない。

このように業の種類(要因)は際限なくあるようである。この業の要因を少しでも多く見つけ、身につけるのも、大事な稽古である。しかし、この業の稽古はよほど心してやらないと、邪念に邪魔されてしまうことになる。例えば体が大きく、パワーのある人は、一般にパワーでできてしまうので、業を探求しようとしないものである。はじめはそれで満足しても、10年も続けていれば、それまで稽古で積み重ねてきたものが何も無かったことに気づいて、自分の稽古に疑問を持ち始め、自分はこれまで何をやってきたのか、これでよかったのかと考えるようになるだろう。10年ぐらいで止めていく人が多いのは、この業の探求をしてこなかったことに最大の理由があるように思える

業が出来るようになると、自分の体のこと、世の中のこと、宇宙のこと等々が見えてくるようになるようだ。人類は、自分はどこからきて、どこへ行くのか、自分は何ものなのか、何をすべきなのか等がぼんやりと分かってくる。開祖が言われていることも少しずつ分かるようになってくる。

また、業が深まるにつれて、技に深みがでる。技を効かせるためには、業を深めなければならない。技は先人が完成している。新しい技をつくる必要は無い。われわれは先人の技を身につけ、後進にそのまま継承するだけである。しかし、業は技と違って無限にあるし、人によって多少の違いが出てくる。従って、まだまだ完成されたものではなく、自分の業を探し求めていくほかはない。

業と技が一体化して「わざ」になる。この「わざ」ではじめて相手を合気道の理合で倒す事ができるのである。

業が出来なきゃ、技が効かない。