【第104回】 受 身

合気道の修行は一生ものである。しかし、時々壁が行く手を阻み、悩んだり、先に進めなくなったり、人によってはそこで中断してしまったりする。合気道の修行を長く続けるのはそう容易ではない。容易でない理由には人それぞれあるだろうが、根底にある共通の理由として、目指すものが具体的な形で目に見えないが、目に見えないものを目標に求めていかなければならないことだろう。

合気道は、スポーツのように他人との勝負ではないので、優劣は明確ではないし、自分の進歩、上達もなかなか分からない。開祖も「合気道には形(かたち)がない」と言われていた。人それぞれに求めるものや目標が違うということであろう。

従って、ある程度までの事は教えられても、後は自分自身一人で勉強しなければならないことになる。だから、人に教えてもらえばいいという気持ちで稽古をしているようでは、限界がくることになる。自分が上達していると実感できれば、修行も苦にならず続くだろうが、進歩が止まったと感じてしまうと、稽古の意欲もなくなってしまうものだ。

上達するためには、条件がある。その条件が欠ければ上達はなく、場合によっては稽古を止めるようにもなる。上達の条件には、「運、才能、努力」がある。運にはいろいろあるが、まずは合気道が出来る状況に遭遇することである。遭遇できれば運がよかったことになる。合気道との出会いが最初の運である。次の運は、教えてもらう先生や先輩、仲間との出会いである。この点に関して運のいい人もいれば、悪い人もいる。教わる先生によって、自分の合気道は決まってしまうからである。また、稽古ができるためには、「体力、経済力、時間それにやる気」が揃わなければならない。それがすべて揃えば「運がいい」ことになる。

将棋の名人であった升田幸三と大山康晴のドキュメンタリーがNHKテレビで放映されていたが、名人の言葉はさすがには心に響くものがある。升田名人は、将棋が上手くなるために必要なのは「運、勘、技、根」であり、一生創作であると言っていた。大山名人は「本当の勉強は一人になったとき」であり、「雰囲気に自分を入れること」であると言う。つまり、本当の勉強は一人でやるものであり、自分を合気モードにして創作していけ、ということである。

また、スランプや壁にぶつかって挫折したりすることに関して、大山名人は、「目標があってそれを追いかけている内はいい」と言っている。つまり、目標がなくなったら危ないぞということである。

升田名人は攻撃の将棋、大山名人は受けの将棋といわれたが、大山名人は「受けの将棋といっても、いつでも反撃できる体勢の受けでなければならない」という。これは合気道の受けでも全く同じである。受けは、始めに攻撃するわけだが、その後に受けを取って転がったり、押さえられればよいのではなく、常に攻撃の気持ちと体勢を最後までとっていなければならないのである。反撃の体勢を取らなければ、逃げる体勢(敵に背を見せる)になり、反撃が出来ないだけでなく、自分の体勢を崩すことになってしまい、自分の稽古にも相手の稽古にもならない。かって柔術では受身は攻撃のための「わざ」でもあったし、合気道でも返し技の稽古もよくやられていたが、最近は演武会の受けのような、受けるだけ、逃げるだけの稽古が多いように思える。

合気道も、また世の中のものもすべては、陰陽で成っている。攻撃体勢の受け、しっかり受けられる体勢にある攻撃(取り)を志したいものである。