【第613回】 人の体の凄さ、素晴らしさ

合気道のお蔭で、体の凄さ、素晴らしさに驚き、そして体に感謝している。主に己の体に依るものであるが、他人の体からも体の凄さや素晴らしさを感じる。他人の体は、開祖植芝盛平先生や有川定輝先生等であり、また、合気道での相対稽古をしている相手の体であったり、見取り稽古での稽古人達の体である。また更に、一流の武道家やスポーツ選手の極限まで鍛えた体である。

合気道は魂の学びであり、魄は必要ないなどと誤解されていることもあって、合気道家は、体をあまり重視しない傾向にあるように見える。
しかし体は鍛えなければならないはずである。何故ならば、開祖は力が要らない等とは言っておられないし、魂を容れるための体(魄)をつくり上げなければならないといわれているのである。

最低どこまで体を鍛えなければならないかと言うと、私は「己の体の凄さ、素晴らしさ」に気づき、体の摩訶不思議を感ずるまでではないかと考えている。己、また、人の体の凄さ、素晴らしさに驚きがないようなら、まだまだ鍛錬が足りないという事なのである。
己の体が鍛えられると、相手の駄目な所、弱いところが見えてくる。また、街を歩く人の体も見えてくる。つまり、武道の基本的な目が出来てくることになる。

あるロボットの研究者は、ロボットを研究すればするほど、人間の凄さが分かってくる」と言っていた。物事をある程度以上に深く探究すれば、人間の凄さがわかってくるということである。

「人の体の凄さ、素晴らしさ」とはどんなものなのかを知りたいならば、例えば、開祖の演武の画像を見ればいい。人があのように動け、超人的な力を生み出し、そして自然な素晴らしい動きに摩訶不思議を感じるはずである。
「人の体の凄さ、素晴らしさ」に摩訶不思議を感じるようになると、恐らく己自身の体でそれを感じるようになるはずである。

例えば、関節の稼働領域である。手の場合、主に手首、肘、肩がつかわれるが、その各々は縦と横に動くが、異なる稼働範囲がある。そしてその可動範囲はちょうどいい角度になっていると思う。例えば、肘を伸ばして腕と上腕を曲げると、ほぼ100度、伸ばすと180度の直線で止まる。もし、肘のところで止まらずに270度や180度まで回ってしまったら、タコや烏賊の手になってしまう。合気道の二教など効かないだろし、人の生活、文化も全然違ったものなるはずである。

他の例として、体にも意志があるように思える事である。自分の意志、脳で動いているのではないようである。それは相対稽古や一人稽古で体をつかっているとわかる。体がこれはいいとか、これは駄目だというし、こうした方がいいと脳にいってくるのである。脳は、わかったこれからはそうするようにしようとその情報をしまって置き、必要な時に出してくるように思える。

また、体の部位同士でコミュニケーションを取り合っているようだ。その一つの表れが、体の中心と末端の手足の結びであり、右左の陰陽の捌きである。部位同士がコミュニケーションを取るべく、体を陰陽、十字等につかわなければならないといってくるのである。

もう一つ、体の部位がコミュニケーションを取り合っている実例を上げる。
10年ほどまでに、高尾山を一本歯で登ったときのことである。二回登ったが、いずれも下山の20,30m手前で、足が思うように動かなくなり数回転倒した。もう少しだから頑張れと心では思っているのだが、脳からの指令に関わらず、足の筋肉は俺は疲れていてだめだから、お前、頑張って体を支え、進めと、お前、お前がと仕事を逃げ回っているのである。そして誰もその仕事を引き受けなくなったところで、転倒ということになったのである。今でも。彼らの仕事のなすり合いの声が聞こえる。

人の体の凄さ、素晴らしさ、そして摩訶不思議を合気道で知り、深めていきたいものである。そのためには、合気道の教えの理合いで、技と体をつかっていくことであろう。
尚、体は借り物である。お迎えが来たらお返ししなければならない。少しでもいい状態で、体の喜ぶものを食べ、体が休息できるための睡眠を取り、そして感謝してお返ししたいものである。