【第600回】 腹中と胸と気

この論文も今回で600回になるが、自分の合気道は、まだまだだと思うばかりである。習い事には、これでいいという終わりはないというが、確かに合気道にも終わりはない。
ここ数年、否、数十年にわたって、正面打ち一教を研究しているが、少しずつは前進しているのは確かだが、まだまだ分からない、出来ない事の方が多い。

正面打ち一教は、合気道の極意技と考えており、諸手取呼吸法と同様、この極意技が出来る程度にしか他の技もつかえないと考える。

この極意技の正面打ち一教を、どのように稽古をし、どのような技、体づかい、息づかい、動作の軌跡や形(かたち)になればいいのかを探究しているわけだが、それがまだ十分にわからないし、出来ないわけである。

大先生をはじめ、合気道の先生方は、合気道の基本の形を教えて下さったが、目に見えない技、息づかい、体づかいなどはほとんど教えてくださらなかった。というより、教える事ができなかったといった方がいいだろう。何故なら、形は誰にでも教えることはできるが、技は稽古人がそのレベルに達していなければ、教えることはできないからである。だから昔の柔術などは、そのレベルに合わせた個人稽古でしかそれを教えなかったわけであり、今のような大勢に教える学校方式の稽古ではなかったのであろう。

従って、正面打ち一教の技づかい等は、己で研鑽しなければならなければならないことになる。そこで問題になるのは、どのように、何を目標に研鑽すればいいのかということになる。

しかし、有難い事には、まず、正面打ち一教の形は、大先生をはじめ、諸先生方は示して下さっている。この形の中には技がつまっているわけだから、自分がこれだと思う先生の形をイメージし、それに少しでも近づくように、その形の中に見えないものを見つけながら稽古をすればいいだろう。

私の目標とする正面打ち一教の理想的なイメージは、有川定輝先生である。
まだまだ万分の一も真似することはできないが、学ばなければならない大事な事が沢山ある。
勿論、有川先生も細かな説明はされなかったが、形で示して下さっているので、そこから見えないものを読み取っていくことになる。

三枚の写真を掲載するが、ここから大事な事がいろいろと見えてくる。
例えば、
○手と足が陰陽につかわれ ○足は撞木足 ○手先まで伸びきっており ○相手の手を握らずにくっつけている ○体は捻じれず、面でつかわれている。 

これらは既に見つけていたことだが、新たに重要なことが見えてきた。
それは、先生が発しているエネルギーである。恐らくこれを「気」といっていいのだろうと思う。この先生の「気」によって、受けはくっつけられて自由自在に動かされているのがわかる。
また、右端の写真3では、先生の手が受けの手に触れているかいないのに、その手がくっついていて離れないのが不思議である。

何故、有川先生がこのような正面打ち一教がお出来になるのか考えてきたわけだが、一つ分かったことは、息・気づかいの違いである。先生の腹と胸に気が充満しているのである。この気の充満した体と手で相手に接すると、相手の力を吸収し、くっついてしまうようである。

そこで胸に気を充満させるためにどうすればいいのか研究してみると、これまで教わってきたこと、やってきたことをやればいいようだ。
つまり、例えば「息を吸い込む折には、ただ引くのではなく全部己の腹中に吸収する」(合気神髄 P.14),「天の呼吸、地の呼吸(潮の干満)を腹中に胎蔵する」「はく息はである。ひく息はである。腹中にを収め、自己の呼吸によっての上に収める」、そして「弓を気いっぱいに引っ張ると同じに真空の気をいっぱいに五体に吸い込み」である。

分かり易く言うと、胸を気で満たすためには、先ず腹でく息を吐いたら、弓を持ち上げるように、腹から胸鎖関節に息と気を上げ、そこで今度は弓を思い切り引き絞るように、息と気を更に引き、胸を気で満たすのである。
この胸と腹の腹中を気で満たした状態で、写真3のように手をつかうと、所謂、気で技をつかう感覚になるようである。因みに、腹中に気を満たさない状態で手をつかうと、所謂、魄の力でやることになり、相手の手を弾いて離してしまうことになる。

この腹と胸の腹中に気を満たす稽古によって、難解な「気」というものもわかるのではないかと期待している次第である。