【第571回】 鉄棒のような腕

かって読んだものや聞いたもので、その時はそれほど気にはしなかったものが、或る時それが気になったり、非常に大事なことではないかと思うことがある。というより、その繰り返しであると言った方がいいだろう。若い時分はいろいろな書物や描き物を読んだり、見たりしていたが、今考えると、ほとんど分かっていなかったように思える。
しかし、分からずに読み飛ばしたり、意識していなかったものが、頭のどこかにへばりついていたのか、最近になるとそれが剥がれ落ち、意識に上ってくるのが不思議であり、有難い。

入門当時合気新聞で読んだのか、また、『植芝盛平伝』等で読んだのか定かではないが、開祖の腕が「鉄棒のようになった」と云うのがあった。当時は、天下無敵の開祖の腕なら鉄棒のようになるのも当然だろうと、読み過ごしていたのだが、今になってそれが気になりだしたのである。

合気道の技を錬磨するためには、鉄棒のような腕をつくることが必要であるし、また、鉄棒のような腕で技の稽古をしなければならないと思うようになったからである。とりわけ、最近では合気道には力が要らないとか、力はつかわないなどとの迷信がどんどん広がっているからである。

天竜三郎さん(和久田三郎)と二代目吉祥丸道主の対談で、天竜さんは、「ひょっと(開祖の)手を掴んだんです。なにか、まるで鉄棒でも掴んだ感じなんです」(「植芝盛平伝」(講談社))といっていたのである。
天竜さんは、元大相撲力士で、元満州国武道会常務理事をされており、力には自信があったわけだが、開祖の腕を掴んだ瞬間に、開祖の腕を鉄棒のようだったと言われていたのである。

開祖の腕は通常の稽古では柔軟で、鉄棒のような腕で技を掛けられてはいなかったはずである。天竜さんが開祖の腕を掴んだ時は、開祖が「合気は試合すると危ないから型だけにしとるんじゃが、今日はなだたる武道家ばかりだそうじゃから、ちょっとだけ真剣にやりましょう」と一座に声をかけたのだという。つまり、ちょっとの真剣で柔軟な腕が鉄棒のようになったわけである。ということは、真剣になれば腕も鉄棒のようにならなければならないということだと考える。

それでは鉄棒のような腕とはどういう腕なのか、そして鉄棒のような腕をつくるにはどうすればいいのかを研究しなければならないだろう。
通常、鉄棒のような腕をつくろうとすると、息を吐いて腕に力を込めるものである。これは所謂「力みの力」「力みの腕」であり、相手の力に負けまいとする受け身の死んだ力と云っていいだろう。

「鉄棒のような腕」は力みではなく、呼吸力による、呼吸力に満ちた腕ということになると考える。
まず、腕にちょっと息を吐いて気を通し(気持ちを入れるでもいい)、次に息を入れながら、その腕に気を充満させ、更に息を吐いて腕から気を流すと、鉄棒のような腕ができる。これを繰り返していく修練をすればいい。更に、技の錬磨はもちろん、呼吸法、剣の素振り、相対での形稽古、持ったカバンで鍛えればいい。

開祖の場合は、天地の気や天地の呼吸をつかわれていたはずなので、われわれの呼吸力とは次元の違う、想像できない「鉄棒のような腕」であったはずである。
呼吸力でささやかな「鉄棒のような腕」がつくれるようになったら、次に開祖の「鉄棒のような腕」をつくるべく、天地の気と呼吸の修業をしていかなければならないことになろう。