【第517回】 体は借りもの

自分が年を取ってきたせいか、最近、特に気になってきたことがある。それは己の体を大事に扱っておらず、粗末に扱っていることである。街を歩いている若者も、服装や化粧や髪形には気をつけているようだが、己の体に気をつかっているとは思えない。中には、10年後には歩けなくなるのではないかと思われる若者もよく見かける。

道場での相対稽古での体づかいでも、己の体を大事に、丁寧に扱っていない者が多い。手や足をむやみに動かしたり、手先などの末端に力を入れてつかったり、また、それ以上動かないようにストッパーがかかっている肩や腰を更に動かそうとしたりしているのである。若い頃はそのような稽古も必要だろうし、また若さで何とかカバーできるわけだが、それにも限界というものがある。そして、挙句の果てに膝を痛めた、腰を痛めたといって嘆くのである。

体は大事に、丁寧に扱わなければならない。なぜならば、体の使用権はあるが、所有権はないのである。己の体だからといって、何をしてもよいという権利はないのである。その証拠に、あちらに行く時は体をお返ししなければならないのである。自分の所有物なら持っていけるわけだが、所有権がないから持っていけないわけである。

体はお借りしているわけであるから、丁寧につかわせてもらわなければならないだろう。そうすれば、体はそれに答えてくれるはずである。体を永寧に扱うとは、体づかいが理に合っているということである。

理に合った体づかいをするということは、合気道でいうところの宇宙の条理・法則に則ったつかい方をする、ということである。天地の気、天の呼吸、地の呼吸に合わせた体づかいをする、ということである。

体が喜んでくれるように、そして体がいろいろ教えてくれるように、体をつかい、体に喜んでもらって、最後にお返ししたいものである。

先ずは、合気道同士が理合いの体づかいで体をつくり、そして世間の人たちに、体は借りものであるから、理合いで大事につかうように伝えなければならないだろう。