【第516回】 皮膚をつかう、皮膚を鍛える

人の体は大ざっぱにいって、皮膚と筋肉と骨でできている。この三つがうまく働くことによって、体が機能するわけである。このうちの一つでもうまく働かなければ、それだけ体が動かなくなることになる。

合気道の技をつかう際も、皮膚と筋肉と骨がうまく働くようにしなければならないはずである。しかし、一般的に筋肉と骨(関節)には注意がいくようであるが、皮膚に注意して稽古することはほとんどないと言ってよいだろう。

皮膚に注意して稽古するというのは、皮膚の働きの重要さを認識し、相対での技の錬磨の稽古で、皮膚を鍛えるべく意識して稽古することである。

ここでの皮膚とは、合気道の相対稽古で受けの相手に触れる己の皮膚の部位、そして受けの相手が攻撃のために触れてくる部位、さらに体を包んでいるすべての皮膚である。

片手取りや諸手取呼吸法で技をかける際に、初心者は持たせた手首を思い切り振り回そうとするものだ。だから、相手にこちらの手と力を抑えられて動けなくなるか、せっかく相手が持ってくれている手から離れてしまうことになる。

これは、皮膚と筋肉と骨を一緒に動かしている訳である。皮膚と筋肉と骨がわかれてなくて、三つが一本の棒のようになっているのである。それは、初心者の手首を握ってみるとすぐにわかる。私の入門当時、先輩たちはよく私の手首を諸手で握って、ふーんとか、まだまだだな、等といわれていたが、これを見ていたのではないだろうか。

鍛えぬいた師範や高段者の手や腕は、皮膚と筋肉と骨を別々に動かすことができるのである。だから、手首をどんなにしっかり握ったり、皮膚を抑えられていても、筋肉と骨が自由なので手や腕が自由に動くのである。

一度、開祖の手首を握らせて頂いたことがある。開祖はまるで手を取られていないかのように自由自在に手をつかわれ、二人掛けの四方投げで投げられたことを思い出す。思えば、まるで皮膚で投げられていたかのようであった。

開祖の皮膚と筋肉と骨は、人としての極限まで別々に機能するように鍛えられていたということだろう。少しでも開祖に近づけるように、皮膚を鍛えなければならない。

そこで、皮膚を鍛えるとはどういうことかを考えなければならないだろう。思いつくまま、順不同で書いてみる:

合気道では、技は皮膚をつかわなければならないようにできていると思う。また、合気道には皮膚を鍛える鍛錬法もある。その典型的な稽古法が、「諸手取呼吸法」であろう。己の手首や腕を相手が二本の手でつかむのであるから、それを制するには力もいるが、技と知恵がいる。その重要なものが、皮膚である。

相手がつかんでいる部位の皮膚を、筋肉と骨からわけてつかえるようにしなければならないのであるが、諸手取りではそれが容易ではない。だから、よい鍛練稽古になるのである。

さらに、諸手取呼吸法をうまくおさめるためには、相手がつかんでいる腕の皮膚だけでなく、背中や腰など体を包んでいるすべての皮膚を働かせなければならないのである。(もちろん、これは他の呼吸法や形稽古でも同じことである。皮膚をつかわないで筋肉と骨だけでやると、うまくできないものである。)

有川定輝先生がいわれていたように、技は諸手取呼吸法ができる程度にしかつかえない。ということは、このように皮膚がつかえる程度にしか、技はつかえないということにもなるだろう。