【第511回】 手の平

ここ数年、正面打ち一教を最大の研究テーマとして試行錯誤を繰り返しながら稽古しているが、この技(形)はやればやるほど難しくなっていくようだ。一つの事がわかったと喜んだとたん、また新たな問題が起き、それに挑戦しなければならなくなる、という繰り返しであり、どんどん奥が深くなるようである。

これまで、正面打ち一教を、手足を左右陰陽につかう、手足や体を十字につかう、息をイクムスビでつかう、手先は腰腹と結び、腰腹で手をつかう、体の立当たりと気の体当たりをする、等々を取り入れてやっていたが、まだまだうまくいってない。自分も納得できないし、受けを取っている相手も十分納得しないのである。

これはやるべきことをまだ十分やってないということである。隠れているやるべきことを見つけ出し、それを身につけなければならない、ということである。

今回は「手の平」にも問題があると気づいたので、「手の平」の研究をしてみたいと思う。

正面打ち一教では、受けの相手が打ち下ろしてくる手(手首、腕)を相半身で制するわけであるが、相手の打ち下ろす力に負けてはいけないし、そうかといってその手を弾いてしまっても駄目である。相手の力に負けないで、相手の手と結び、相手と一体化しなければならないのである。

最近の稽古は、時代を反映してか思いっきり打ちかかるような稽古をしないようである。だが、少なくとも上級者は、相手が初心者であるとか、力が弱いとか、気持ちが優しいとかには関係なく、相手は思いっきり打ち下ろしてくるものだと、常に最悪を想定し、全力で気を入れて稽古しなければならないと考える。

つまり、相手と関係なく、最善を尽くして稽古しなければならないのである。だから、稽古相手は誰でも同じということになるのである。これを開祖は、相手がいて、相手がいない、ともいわれているはずである。

そのためには、「手の平」が大事である。「手の平」が開き切っていなければ、打ってくる相手の力に負けてしまい、相手の手に結ぶことも、そして相手を導くこともできないのである。

しかし、「手の平」を開き切るのは容易ではない。初心者たちに「手の平」を開き切ってみるようにやらせても、手がまっすぐ開き切らないで、まるで手に物でも持っているように、指や手掌や手刀など丸まったままなのである。どんなに力んで「手の平」を開こうとしても、丸まったままになってしまう。このように丸まった「手の平」で、技が効くはずがない。

それでは、「手の平」を開き切るにはどうすればよいか、ということになる。だが、まず「手の平」が開き切るとはどういうことなのか、丸まった「手の平」とはどう違うか、を考えなければならない。

これらの問題と解決法は、合気道の理合いで考えればよい。この場合には、一言でいえば遠心力と求心力ということになる。「手の平」が丸まるのは、内に向かう求心力が強く働き、外に向かう遠心力が弱いか、働いてないからである。従って、「手の平」を開くためには、この「手の平」にある力を外に向かって出せばよいのである。つまり、遠心力の養成ということになる。実は、この遠心力の養成が、合気道では非常に重要である、と思っている。

しかし、やってみると分かると思うが、これも簡単ではないだろう。いくら力を「手の平」に力をこめて開こうとしても、十分には開き切らないはずである。

「手の平」を十分に開き切るためには、呼吸が大事なのである。イクムスビの息に合わせて、「手の平」を開かなければならない。「イ」と息をちょっと吐きながら「手の平」に力を集め、次に「ク」と息を入れながら「手の平」を大きく開く。(正面打ち一教では、ここで己の手を振り上げる)。そして、息を吐き、「手の平」をさらに開き切るのである。(正面打ち一教では、ここで己の手で相手の手に結び、相手と一体化する)

「手の平」を開き切るということは、「手の平」に遠心力と求心力が備わることであるから、ここに引力が創出され、相手とくっつくことになるわけである。このイクムスビの呼吸に合わせて、「手の平」を開き切る稽古をすればよい。そう難しい稽古ではないはずである。

すばらしい技をつかわれた開祖の「手の平」も、有川定輝先生の「手の平」も開き切っていた。(写真)

「手の平」が丸まっていては、技は効かないはずである。「手の平」が開き切るように鍛錬し、それを技に生かしていかなければならない。

これで正面打ち一教がどれだけ変わってくれるか楽しみである。