【第493回】 力はある方がよい

合気道は相対で技をかけあいながら稽古していくものだが、技をかけても思うようには効かないものである。うまくいかない理由はいくつかあるが、その内の一つに、ある迷信を信じていることがある。それは、合気道には力が要らない、ということである。力がなくても、また、力を使わなくても、合気道の技は効いて、相手が倒れるものだ、と思っていることである。

多くの合気道の稽古人は、そういう迷信を聞かされたであろうし、合気道をよく知らない人たちに、そのように話したりもしているだろう。

迷信のもう一つの理由として、開祖がいわれていることを、自分に都合がいいように解釈しているということがある。例えば、開祖は「米糠三合持てる力があれば合気はできる」といわれている。だが、これは「米糠三合持てる力」の力があれば技が効く、ということではない。「米糠三合持てる力」で技をつかうようにしなければならない、という意味に捉えるべきであると考える。

しかも、開祖は「合気道は無限の力を体得することです」ともいわれている。ただし、魄の力には限度があるので、この魄の力を土台にして、魂の力を表にして修業しなさい、といわれているのである。

科学的には『力=筋力×スピード』と定義されている。つまり、筋力は筋肉の大きさ(太さ)に比例するといわれているから、筋肉を鍛え、鍛えた筋肉にスピード(速度と拍子)をかけてつかえばよいことになる。

もちろん、合気道でも力はあればあるほど、強ければ強いほどよいわけである。理合いでつかえば、技もそれに応じてかかりやすくなるはずだ。それは、開祖をはじめ、開祖のお弟子さんたちを思い返せば分かるだろう。

力を抜いて技をかければよい、などということを聞くこともあるが、力の無い者に力を抜くことなどできるはずがないだろう。この場合の力を抜くという意味は、力まないということである。力が悪いわけではなく、力の使い方が悪いのである。

気力とか魄力は魄の肉体から出てくる力である。だから、魄である体をだいじに扱わなければならない。開祖も「真の自分のもの(力など)を生み出す場処である体を大事に扱い、魄を大事に扱うことを忘れてはいけません」といわれている。

魄の肉体ができてきて、力もついてくれば、次にこの魄を魂に振りかえていかなければならなくなる。だが、「肉体すなわち魄がなければ魂が座らぬし、人のつとめが出来ない」のだから、魂が座るためにも、土台になる魄を鍛えていかなければならないのである。

従って、力はいらないなどと魄を排するのではなく、土台として必要なものなのである。だが、力の魄に頼り続けるのではなく、魂の世界にふりかえていかなければならない。つまり、魄が下になり、魂が上、表になるようにしていくのである。

ということは、魄の上にくる魂が少しでも大きく、強くなるためには、土台になる魄もできるだけ大きく、強い方がいいわけである。だから力もある方がよいはずなのである。

しかし、力や魄にしがみつくことは駄目である。これを、開祖は「魄に堕せぬように魂の霊れぶりが大事である。これが合気の練磨方法である」といわれている。

しっかりと力をつけて、魄の体をつくり、そして、魂(心、精神)で魄を誘導するような技づかいをしていけばよいであろう。そうすれば、周りの人にはおそらく力をつかってないように、つまり「米糠三合持てる力」でやっているように、思われることだろう。