【第467回】  呼吸力を出すために(1/2)

合気道は、相対で受けと取りを交互に繰り返しながら、平和的に稽古していくので、本来はぶつかり合ったり、争ったりしないはずである。だが、時として受けにがんばられると、倒すことができなかったり、争いになったりすることもある。

考えてみれば不思議ではあるが、現実にはぶつかり合うこともあるので、これも現実であり、真実で意味がある、ということになる。

合気道はぶつかり合ってはいけない、と教わってきたので、極力ぶつかり合わないような稽古を心がけたつもりであるが、実際には多くの相手とぶつかり合い、争う稽古をしていた。

お互いにがんばり、ぶつかり合い、争いになり、そして反省してそうならないように稽古するのだが、その内にまた同じような反省をする、という繰り返しだった。

今になると、どうしてもそのような稽古になってしまったのだが、そのような稽古をしていたことにも意味がある、と思えるようになった。

合気道は形をやりながら技を錬磨していくわけだが、受けの相手の本来の使命は、取りの相手の動きを封じ込めることである。だから、受けの相手がまじめに使命を果たそうとすれば、ぶつかり合いになるのは不思議ではないだろう。つまり、ぶつかり合うことは、合気道の形稽古にもある、ということである。

だから、開祖は、ぶつかるな、争うな、といわれたのであろう。もし、ぶつからないようにできているのなら、わざわざそのようなことをいわれるはずがない。

さらに、開祖は「ぶつかって、ぶつからない」ともいわれている。まずはぶつかれ、といわれているのである。ぶつかることは、そう難しいことではない。いわゆる気の体当たりと、体の体当たりである。相手が怖くとも、目をつぶって体をぶつければよい。

しかし、「ぶつかって、ぶつからない」となると難しい。これには、長年の修業がいる。だから、「ぶつからない」ようになるまでは「ぶつかる」しかない。

また、「ぶつかって、ぶつからない」ようになっても、「ぶつかって、ぶつからない」は紙一重という微妙なものであり、間違えればぶつかってしまうことになる。

自分もそうであったが、初心者が誤解している考え方もまた、大きい「ぶつかり」を生み出すのである。それは、冒頭にも書いたが、「受けにがんばられる」のでぶつかる、ということである。受けの相手ががんばって倒れないので、おのれ小癪な、となるわけである。

だが、相手が倒れないのは、だいたいにおいて、技をかける取りに責任がある。取りの方が、相手が受けを取れないように、技をかけているのである。

初心者には難しいことであろうが、もともと合気道は相手を倒すのではなく、相手が自ら倒れるように技をつかわなければならないものである。従って、相手が自ら倒れてくれるようになるまでは、争いが起きるのも仕方がないことになる。

前置きが長くなったが、今回のテーマである「呼吸力を出すために」に入ることにする。結論からいうと、合気道の力である呼吸力が強ければ、受けの相手はぶつかることも、がんばることもないだろうし、争いなど起きなくなる、ということである。開祖の前に立ったときや、有川師範の受けを取る時など、ぶつかろうとか、がんばろうなどとは、思いもよらないものである。

それ故、ぶつかったり、争わないようになるためには、呼吸力を少しでも大きくし、呼吸力の養成をしていかなければならない、ということになる。

次回は、「呼吸力を出すために」で、どのようにすれば大きな呼吸力を出すことができるか、養成することができるか、を研究してみたいと思う。