【第444回】 ごまかさない

合気道の稽古は、結局は自分との闘いである。稽古相手や他人と闘っている間はまだまだである、といえよう。自分と闘い始めるとわかるだろうが、自分との闘いで、他人と闘う余裕などなくなるし、興味もなくなるものだ。

合気道で、技を錬磨しながら上達するのは、ほんの少しずつである。そして、そのほんの少しの上達のために、上達するための条件を満たしていかなければならない、と考える。ただ稽古をやれば上達する、ということでは、決してないはずである。

上達するための条件にはいろいろあるが、その中に、自分をごまかさない、ということがある。自分の心をごまかさないこと、それと、自分の体をごまかさないこと、である。

自分をごまかさない、ということは、自分に正直である、ということである。自分の心と肉体に正直ということである。

合気道は相対で技をかけあって稽古するものであるが、相手に体力や魄力がある場合には、気の体当たりと体の体当たりをしなければならないと分かっていても、ぶつかっていかずに逃げてしまいがちになる。たとえ心で逃げまいと思っても、体が逃げてしまうのである。

例えば、正面打ち一教や入身投げで、相手が打ってくるのをしっかり受け止めなかったり、まっすぐ進むところを横にずれたりする。相手の力を避けたり、動きまわりやすいからである。

気の体当たりと体の体当たりの必要性、これが即ち技をかける前提である、ということがまだ分かってないのなら、話にならないが、気の体当たりと体の体当たりの必要なことが分かっているのなら、まっすぐ進まないことはごまかしになる。やるべきことをやらずに、最後に相手を倒せばよいのだ、と思っているわけである。

だが、ごまかしているということは、心が知っているはずであり、体も知っているものである。自分の心と体の声を聴けばわかるだろう。ごまかしていれば、心も体も満足できないので、どこかに不満を感じることだろう。

大先生は我々が道場で稽古している時に突然お出でになって、お話や神楽舞をされることが度々あった。ある時、いつものように厳粛に神楽舞をはじめたのだが、しばらく舞われると突然止められて、「間違った」と赤い顔をして恥ずかしそうにおっしゃった。そして、もう一度最初からやり直されたのである。

我々にはどこが間違っているのか、前と後でどこが違っているのかなど、全然分からなかった。黙って続けておられても、自分たちには分からないのに、と思ったりしたものである。このことからも、大先生は自分に真っ正直で、決してごまかしなどできない方である、と思ったのである。

相対で稽古しているときに、自分の心と体の声を聴くことができるようになるのがよいのであるが、当初は難しいだろう。それなら、一人稽古や仲間と一緒の自主稽古で聴くようにするとよい。心も体も、自分にいろいろ言ってくれるはずである。

例えば、避けるな、まっすぐ進め。逃げるな、ぶつかれ。手・足・腰は十字に、体と息は陰陽に、手・足・腰の角度はこうである、相手をこの円の中に収めろ、等々。

このような声が、つまりは、上達するための条件であり、また、上達要因なのである。声が聴こえた時は、その声に従うよう、声に逆らわないよう、つまり、ごまかさないように稽古することである。この声での上達要因が増えれば増えるほど、上達していけることになる。その声に忠実に、その要因をひとつずつ増やしていかなければならない。

ごまかさないで、正直に稽古するしか、上達はないだろう。