【第415回】 魄を制するために

合気道は、気の形稽古をしながら、精進していくものである。だが、長年、稽古していると、形では相手を倒せないことが分かってくるだろう。また、分からなければならない。どんなに力を込めてやっても、形だけでは相手は倒れないのである。相手に腕力、体力が自分よりもある場合、相手が倒れるのが嫌だとがんばれば、倒れないだろう。

これを打破し、倒れなかった相手を倒す方法には、二つある。一つ目は、相手よりも腕力、体力をつけることである。若い内は、やられてやられて、どんどん力をつけていくべきだろう。

二つ目は、異質の力をつけることである。そして、この異質の力にも、二つある。(1)は、肉体的な異質の力である。例えば、手先の力ではなく、腰腹の力、呼吸力などである。(2)は、精神的な力である。

これまでも、ふたつ目の(1)の力である、肉体的な異質の力については。何度か書いてきた。今回は、(2)の精神的な力を書いてみることにする。

相対での稽古で、相手がこちらの手をしっかりつかんでくる場合、つかまれた手を動かして技を使おうとしても、そう簡単には動かないものだ。動かないと、何とかしようと力んだり、手を振り回したりして、相手と争うことになり、合気道の稽古にはならなくなってしまうのである。

長年、合気道の稽古を続けていると、このような力の限界につき当たることだろう。多くの稽古人は、ここで自分の限界を感じて、引退していくようである。おそらく、これ以上の稽古を続けても、強い力のある相手を制することはできないと思ったり、合気道では力のあるものを制することはできない、と思うのではないだろうか。

長年やってきた合気同人が、そのような理由でリタイアしていくのは残念である。もし、そのような考えで引退していくとしたら、次の二つの事を誤解していると思うからである。

一つは、自分より腕力、体力の強い人を制することができず、自分の力の限界がわかったということは、実は大いなる上達であり、ある次元に到達したということだ、ということである。一生懸命に稽古し、体をつくっていなければ、自分の力の限界を認識することはできないものだ。

自分の力の限界を認識できるようになったら、一つの時点に到達したと考えて、次の次元に進めるものと考える。希望を失わずに、次のステップに踏み出せばよいのである。

二つ目は、合気道では力に対応できない、と思うことである。力の強い者につかまれると、技は使えないし、相手を制することなどできないのだ、と思ってしまうのである。

腕力、体力のある相手を制するのは、確かに容易ではない。合気道は力が要らない、などということはない。そんなことは誰も言ってないはずである。力はなくてはならないし、あればあるほどよい。合気道は武道である。力のいらない武道などはない。

しかし、合気道の求めているのは、力だけではない。つまり、力をつけるために稽古しているわけではないのである。力には限界がある。力をつけ、体をつくり、そして、それを土台にして、さらなる精進をしなければならない。

そこまでは、肉体的、物質科学の魄の稽古である。この段階では、自分より同等以上の力持ちを制することはできないだろう。

この強力な力を制することができるのは、精神的で、魂の稽古から得られるモノである。魂が魄の表に出、魂が魄を導くことによって、相手の力(魄)にあまり左右されずに動け、技をつかえるようになることである。

またまた、字数も多くなってきたので、力(魄)を制するモノについては、次回の論文に書くことにする。