【第348回】 目を過信しない

人間には、五感というものがある。見る、聞く、匂う、味わう、皮膚で感ずるという感覚機能である。合気道で精進していくためにも、この五感は重要なはずである。

昔は野草を食用にしたり、あるいは薬や毒薬に使ったり、知らない地で水を飲むようなこともあっただろうから、匂いや味の鍛練は不可欠であったろうし、鋭敏でなければならなかったはずである。

都会を離れたり、未知の未開の地で暮らしたりして、そこで稽古するとなると、やはり匂う、味わう、等の鍛練も欠かせないものである。やはり、現代でも五感の鍛練は必要ということになるだろう。

今回は、この内で、見る機能をもつ目について研究してみたい。一般に合気道を修行する者にとっては、目は大事である。目が見えるだけでも有難いことだ。しかし、目を過信しないことが、武道では大事なようである。

合気道は、技をかけあって技を練磨していく。だが、技をかける際に、初心者は相手との接点や、技をかけようとする自分の手を目で見てしまうので、技がかからなくなってしまう。目が邪魔をしてしまうのである。

また、目で見てしまうと、自分の心体の動きや相手の心体の動きが読めなくなってしまう。つまり、見ることによって、自分自身を呪縛して動けなくしてしまうのである。

相対で稽古していて気がつくことは、人は目で見ているようで、意外と見ていないということである。目は開いて見ているのだが、見ていないものである。例えば、指導者が技を示しても、自分でやろうとすると、どうやればよいかわからなかったり、違った動きをしてしまったりする。

では、目で見ないで、目をつぶっていた方がよいのだろうか。視覚障害のあるピアニストで、すばらしい演奏をしている方もある。目が見えなければ目に頼れないから、他の感覚を使うことになるだろう。

しかし、目で見える人は、目をしっかり使うべきであろう。ただし、自分自身を呪縛しないように見ることである。

大先生(開祖)の目は、今でも思い出すことができる。特に、我々稽古人に雷を落とす時の目など、今でも怖気がするくらいだ。いわゆる、眼光鋭い目、というのであろう。この眼光鋭い目と見てない人の目の違いは、見てない人の目は、見えるものも見えてないのに対して、眼光鋭い目は、見えるものはもちろんのこと、見えないものを見ることもできることである。見えないものとは、つまり心である。

開祖は「魂をもって、活眼をもって人を見破ることが出来なければなりません」(「合気真髄」)とも言われているのである。

大先生が雷を落とされる時には、道場に居合わせる誰もが思わず目を伏せてしまうものだった。穴があったら入りたいところだが、体は隠せないので小さくしているしかない。それで心を読まれないように、無意識のうちに目を伏せてしまったのだと思う。

もちろん、見えないものを見るための目は、眼光鋭くなくてもよいはずである。仏陀のような柔和な目でも、見えないものは見えていたことだろう。

いずれにしても、合気道が求めている見えないものを見るためには、見えるものに頼らないことであろう。目を過信しないで、見えないものを見ることができる目を鍛練していかなければならない。