【第322回】 二教は一教ができる程度にしか出来ない

合気道は技の練磨をしながら上達していくが、稽古している技やその稽古を補強する基本準備運動は、すべて有機的につながっていると思われる。特に、一教、二教、三教、四教は、有機的なつながりがあると思う。また、諸手取り呼吸法ができる程度にしか、技は使えないともいわれる。

この固め技の中で、中心になるのは一教である。一教がしっかりできれば、二教ができるし、二教ができれば三教、三教ができれば四教ができるようになる。逆にいえば、一教がしっかりできなければ、二教はできないことになる。

できるできないの基準はないが、理に合っているかどうかであろう。結局、本人の判断基準によることになるだろう。

今回のテーマは「二教は一教のできる程度にしかできない」であるが、その理由を示してみたいと思う。

「二教は一教のできる程度にしかできない」というのは、事実であると思う。その証拠に、一教がしっかりできないのに、二教ができる人はいない。

一教は基本技の中の基本でもある、と考える。一教では、左右の足を陰陽に規則正しく交互に使わなければならないし、手も足と同じように、左右交互に陰陽に使わなければならない。そして、武道であるから、ナンバで動かなければならない。だから、同じ側の手と足が、陰陽で交互に動くことになる。これが身に付かなければ、二教での手首関節をきめることはできない。たとえ相手の関節をきめたとしても、それは腕力でやったか、または相手が弱すぎたからからということになる。

もう一つ、一教の稽古には、他の技とは違って、指先の力を鍛えるという特徴がある。一教は、かつて「一教腕抑え」といわれていたように、相手の腕を抑えて相手を制する技の稽古法である。二教、三教は、手首やひじという人体で弱い部位を責めるので、相手を制するのはわりあい容易である。だが、一教のように、相手の腕を抑えて制するのは、容易ではない。

技をかけている過程はもちろんのこと、最後の抑えでも、相手に腕を反されてしまうようでは駄目である。そうならないためには、手先に腰腹からの力を集め、相手の腕を抑えなければならない。従って、一教は最後の腕抑えが大事である。

これを力いっぱいやって、手先に力を集中できるようにしなければならない。お座なりでやれば、自分の稽古にならないし、相手の稽古にもならない。手先に力がつかないと、二教も効かないのである。二教は「手首まわし」といわれたように、手首を取って相手を制する技であるが、そのために大事なのが手先の力である。手先に力を集中すれば、相手の手首をしっかりと抑えることができて、表でも裏でも技が効きやすくなる。

手先・指先の力が鍛えられてなくて、弱いままでは、二教の表も裏も効かないといってよいだろう。だから、二教が効かなければ、一教をさらに稽古することである。