【第310回】 自他の対話で結ぶ

合気道の究極の修行の目標は、宇宙との一体化といわれる。しかし、この壮大な目標を言葉ではわかったとしても、宇宙との一体化とはどういうことなのか、そして、どうすればその目標に向かえるのか、そのためにはどのような稽古をすればよいのか等など、よくわからないというのが実情であろう。

このようなことは、いくら考えていても埒があかないはずである。しかし、われわれ合気同人はこの目標に向かわなければならないわけだから、何とかしなければならない。

人は漫画や映画のように、急に変身したり、急に大したことなどできそうもないが、一生懸命やっていると、いつしか大した結果が得られるようになることは、歴史が示している。

我々は彼らの業績の結果しか見ていない。だが、そこまで来たのは、やるべきことをきちっと積み重ねてやった結果のはずである。

宇宙との一体化というのは、正面突破では難しいようだから、それならその対極から一体化を始めればいいのではないかと考える。宇宙と自分との関係は、宇宙、地球、生物、人間、そして自分自身とつながっているから、まず宇宙と対極にある自分自身との一体化を身につけることである。

合気道の稽古をしていても、例えば、準備運動ひとつでも、自分自身の一体化など中々考えもしないものだ。しかし、自分自身と一体化できなければ、他人、生物、地球、そして宇宙などと一体化できるはずがない。まずは、自分自身との一体化である。

まずここで、一体化とはどういうことなのかを、いっておかなければならないだろう。私が考える一体化とは、 等などと考えている。

まず、自分自身との一体化であるが、このためには自分自身の中での対話が必要である。

例えば、指関節の鍛錬(図)をする場合、他(人差し指)を力任せに押しつければ、痛くて深くまで伸ばすことはできないはずである。十分伸ばすためには、まず、他である人差し指の先端に親指の腹をちょっと当てたところで、押さずにそのまま息を吸う(下腹に息を入れる)のである。すると人差し指が自ら親指に引っついてくると同時に、人差し指のすべての関節が緩んでくるので、そこを息を吐きながら、親指に押し込んでいけばよい。先ほどの痛さはなく、心地よささえ感じるはずである。

これが、親指(自)と人差し指(他)の対話ということになるだろう。この対話を他の指でやるのはもちろん、手首、肘、肩、肩甲骨、首、足でもできなければならない。まずはこれが、自分自身での対話であり、自分自身の一体化であるとする。

次は、相対稽古での相手(他)との一体化である。これはみんなが苦労しているように、一体化しようとしても弾いてしまったり争いになってしまい、難しいものである。その原因は、簡単にいえば、人類の歴史、物質文明(開祖は物質科学といわれていた)にあるということだろう。これまで、敵にやられないよう、負けないように、相手を倒し、生き残ってきた人類は、さらなる生存のための遺伝子や闘争ホルモン(テストステロン)等をもっている。そして更に力や財力を少しでも多く持とうとし、それを駆使しているからであろう。

その本能を目覚めさせないように注意しないと、稽古相手とは一体化できないし、時として争いになる。

相手と一体化、つまり二人が一人になるためには、先述の指と同じように、対話が必要である。まずは、相手に触れたところから対話をすればよいだろう。

例えば、片手取りで手を持たせる場合、押したり引いたりと争うのではなく、相手に持ってもらうように念じ(気持ちを送り)、相手に力の負担をかけず、相手の気持ちを出させ、そしてその気持ちに相手の体が反応し、従うようにしなければならない。つまり、相手の気持ちと結び、対話することによって、相手の体も結ぶので、自他が一体化することになる。もちろん、息づかいも先述の「指関節の鍛錬」と同様に大事である。

そして、最後は相手が倒れることになるが、相手を手で倒してしまっては、自他の対話が途切れてしまう。この最後の瞬間の対話も、はじめと同じように難しいが、大事なのである。

例えば、「正面打ちの入身投げ」や「呼吸法」では、自分の手が相手の肩に接触するが、そこから手でやると、相手は本来、弾き飛ばされる。せっかく二人が一人になったのが、また二人に分離してしまうことになるので、相手は「おのれ小癪な」と思うだろうし、それまでのよい対話が決裂ということになる。

この決裂を防ぐためには、さらなる対話をここでもしなければならない。まず、合気道の鉄則といえることだが、接点を支点として動かさないことである。相手の肩に接している手をむやみに動かさないのである。

接点の手を相手の肩に軽くのせながら、手の対極である腰、そして足の重心を移動し、下腹の張りをなくすと、自分の体の突っ張りはなくなり、重い体になる。この重い体の重みを相手の体にあずけると、相手の心が「これは、降参だが気持ちがいい。体よ、お前も倒れるがいい」といって倒れていくようである。

体をあずけるということは、簡単にいうと、落語に出てくる「ラクダの馬さん」のように、自分の体が死体になったようなつもりで、相手に体重をあずけるのである。要は、突っ張りをなくすことである。体を相手にあずける際には、こちらの心がまず「あなたをやっつけようとしてはいませんよ。ご自由にやってください。」と相手にボディーランゲージで話しかけるので、自他との対話ということになるだろう。

この自他の心と体の対話によって、合気道で求められているように、相手が自ら倒れたり、崩れたりするわけである。

いずれにしても、心(気持ち)が体に優先しなければならない。体が先走って動いてしまえば、対話はなくなるはずである。これが、開祖がいわれている「魂が魄の上にき、表に出なければならない」ということでもあるだろう。

自分自身、そして稽古相手との対話から、さらに宇宙との対話まで、いろいろなものと対話していかなければならない。まだまだ修行が続くということだ。