【第302回】 音 (息、声、足音)

人は生きていくための五感を有しており、そのために目、耳、鼻、舌、皮膚などが備わっている。この一つの機能でも欠ければ、生活に支障を生じることになる。

武道では、目がまず大事であろう。他の器官が機能不全でもなんとかできるだろうと思うが、目が見えなければ武道の修行はままならないだろう。とはいっても目が見えなくとも、やってやれないことはないのかもしれない。座頭市や机竜之助の例もあることではあるし。

合気道でも目が大事なことに変わりはないが、耳が想像以上に大事であると思う。耳は音を聞く器官であり、音とは息や声や足音などの響きである。

まず音に関して合気道での私の体験をお話しよう。開祖の晩年のことだが、以前の古い本部道場で稽古していたころ、時々大先生が道場の入り口の前にある洗面所をお通りになって、お手洗いに行かれたものだ。わざわざこちらのお手洗いに来られなくとも、ご自分のところをお使いになればよいのだが、我々の稽古をご覧になるために来られていたようである。

大先生はご自分のお部屋にいながらも、我々の稽古を、響きによってどんな稽古をしているのかお分かりなのだ、といわれていた。何か感じられたときに、おそらくお手洗い名目で稽古をちらっとご覧になられたのであろう。そして、時としてお手洗いの後や前に突然、道場にお入りになり、稽古を中断した我々に技を示されたり、注意をされたり、神楽舞を舞われたりして、またスーッと退場された。

話を元に戻すと、大先生がお手洗いに行かれるときは、稽古人の誰かがすぐお手洗いに隣接している洗面所の前でお手拭きを用意して、待機することになっていた。その役は、当時もっとも若かった我々の仕事であった。

ある時、私がその役を果たすべく、洗面所の前でお待ちしていたのだが、中々お出にならないのである。耳を澄ませてもシーンとしているし、異常はないようだが、出て来られないのである。

おかしいなと思い、考えたことは、もしかすると殺気を感じられたのかもしれないということであった。当時の私たちはけっこう激しい稽古をしていたので、そういう気が出ていたのか、それとも(記憶にはないのだが)もしかすると大先生に対して不謹慎な考えを一瞬でも持ったのかもしれない。 (余禄:ある時、同じお手洗いに大先生が入られていたとき、内弟子の一人が木刀を持って、大先生が出て来られたら一撃しようと待ち構えていたが、なかなかお出にならないので、その内弟子は覚られたと思い、即自室にもどって何食わぬかをしていたと本人から聞いた。かつて大先生は弟子達に、隙があればいつでも打ちかかって来いといわれていたので、それを実行しようとしたが、失敗したということであった。)

そこで、そのような不審を払拭しようと、咳払いをしてみた。すると、咳払いと同時にお手洗いの戸が開き、大先生が出てこられたのである。その時、大先生は咳払いをお聞きになって、なんだこんな奴かと安心して出て来られたのではないかと思う。

息、声などの音は、修行の程度によって変わるものである。修行をしていくと、音は下腹から出、体全体を響かせながら出てくるように思える。それに引きかえ、初心者の音(声)は喉、胸、上腹などから出るので、そのためか、弱い音になってしまう。

さらに、修行を積むと、相手の息づかい、声などから、その人の体格、体形、性格、心持なども観えるようだ。足音の音からも、その人のだいたいの想像はつくものである。

武術的には、息が聞こえたり、声を発したり、また、足音をたてたりするのは、敵に自分のことを暴露することになるから、致命傷になることもあるだろう。つまり、稽古は音がしないよう、相手に聞かれないようにしなければならない、ということであろう。

しかし、その半面、しっかりした声や息遣いができるようにも、鍛錬していかなければならないだろう。