【第245回】 切れ目(横目)とお能

伝統的な武道や芸能などは人間の体のことをよく研究し、よく熟知しているものだと、今さらながら感心させられる。というより、今になってそれが分かって来て、感心していると言った方がいいだろう。

体も学問的にいろいろと解釈できるだろうが、武道家は違った解釈をしてもよいだろう。技を練磨し、武道を修行するには、人間の体を原始時代までもどして、その必然性や人間の本能や習性との関係で体を捉えていかなければならないのではないかと考える。つまり、人間の体を現代の便利で安全な環境の中で捉えると、体の機能や役割が本来のものと違ってくるのではないかと考えるからである。

例えば、顔にある目である。目は二つあって、目は横に長く切れている。「切れ目」となずける。目はもちろん見えなければならないが、原始時代にくらべたら安全な現代では、どれだけシャープに遠くまで広角で見えなければならないかということは、それほど問題にされない。それよりも、目が綺麗だとか、顔の中の目の配置やバランスの方を重視するきらいがある。

生きるために獲物を獲る必要もないし、望遠鏡やメガネもある。狩猟時代は、はっきり見えない、夜目がきかない、遠くが見えない、周りが見えないとなると、生きていけないわけだから、目は死活問題となる重要なものであったはずである。従って、目の遣い方も違っていただろう。

そこでまず、目が二つ、それも横に並んであることを、改めて考えてみたいと思う。目が左右にあるから距離感がわかるわけで、もし一つ目だったら分かり難いだろう。また、目が左右ではなく上下についていたとしたら、恐らく遠い近いの距離感ではなく、高い低いという高低感をもつことになるのではないかと想像する。人が生きる上で高低感より距離感の方が重要であるはずなので、目は左右の横並びでつくようになったのだろうと思う。

だから、目はふたつ横についているのだろう。これが縦についている目だったら、当然、体は今のものと違ってくるはずだし、合気道の技の稽古も違うものになるはずである。もしかすると、今のように床に沿って動く平面的な動きではなく、猿飛佐助などが得意とする上下に飛び跳ねる垂直的な動きの稽古になるかもしれない。

もうひとつ、「切れ目」の問題である。なぜ目は横に切れているのかということである。なぜ人間の目は、縦に切れていたり、フクロウのようにまん丸の目にならなかったのだろうか。必要があってそうなったはずだ。専門家から見ればおかしいかも知れないが、これを武道的に解釈してみたいと思う。

原始時代には、人類は獲物を捕獲したり、敵を倒したりする場合に、その獲物や敵を標的として、決して目を離さず歩み寄ったり、駆け寄ったりしたはずである。標的を見失わないためには、顔を左右に動かすことはできないが、進んでいる道の様子や他の敵など別なものを見る必要もあるので、顔は前を向いたまま目玉を使ってしっかり見ながら動いていたはずである。顔が多少ぶれても、目はそのままの位置にあって、顔が動くことにより、切れ目の中を目玉が左右に転がって移動しているように位置をかえる。切れ目によって、眼の前の180度は視覚にはいることになる。

これを武道の面から見てみる。前回書いたが、合気道で技を掛ける場合は、顔と体幹を捻じらずに平面的に同時に動かさなければならない。歩を進める場合も、撞木(しゅもく)で進む時に、顔と腹は同じ方向を向かなければならない。しかも、敵(稽古相手)を常に切れ目の中の目玉で捉え続けていなければならない。この場合、顔は動かせないので、目玉は切れ目の中を左右に移動することになる。また、左右にあるものを見る場合も首を動かせないので、目玉だけを切れ目の中を左右に動かすことになる。つまり、横目である。従って、目は横に切れ目になっているから有難い。

上下にあるものを見る場合は、視点を外さないままで首を上下しても、焦点は狂わないから、目は縦についている必要はないことになる。武道の体の遣い方は、原始時代からのものを継承しているように思う。

合気道での技の練磨においても、自分の進む方(標的)に顔と腰腹を共に向け、その両者がバラバラに動かないようにしなければならない。撞木で歩を進めると、顔と腰腹は撞木で進み、顔と腰腹は正面(標的)に対して角度をもつが、顔の目玉は切れ目の中をころがるように目じりまで移動し、目標を捉えている。目玉の位置は変わらずに切り目の中の位置が変わるのである。そうすると標的を正面に置いてじっくり見るのではなく、切れ目でふわっと見ることになる。これが技を掛けるときは標的を見て見ないようにするということになるのだろう。

顔を横に振ると見るものがぶれてしまい、標的を逃すことになる。だが、顔(首)を上下する分には、視覚を鮮明に保てる。それは、顔の上下は体の中心軸と同軸で動くからであろう。顔を横に振りまわすと視界が乱れるのは、顔の軸と体軸が二軸に分かれてしまい、顔と腹のむすびが切れてしまい、顔がぶれるからのようだ。だから、顔を上下に動かすのはいいが、左右はまずいということになる。

恐らく武士は顔だけをねじったり、顔と体幹をねじったりは原則的にしなかったのではないかと想像する。ただ、庶民は顔(首)だけ捻じる動作を頻繁にやっていただろう。その典型的な図として「見返り美人」(写真)があり、その美が称賛されている。庶民と武士はこの点でも違っていたのだろう。

顔は横にふらずに、体幹と共に動かすのがよいということである。その模範的な動きをするのが、お能である。お能の歩では、顔と体幹をむすび、その二者が平面で共に動き、決して体や顔を捻らない。ただし、悲しみや喜びを表現するために、顔を上げたり下げたりする動作はある。これは無駄がなく自然で美しい。

お能のお面(おもて)は、小さな穴が目のところにあるだけである。視界は非常に狭い。能役者はこの視界で、顔を捻らずに演じなければならない。目標に正確に照準を合わせて、顔や体を捻らないで動くのである。至難の技といえよう。合気道の稽古でもこの体と顔と目の三つが捻じれず、歪まず遣えるようにしなければならないだろう。

お能やお仕舞いは武士の習い事であったわけだが、それは武道の所作の究極を追及しているということにあるのではないかと考える。技の練磨のためにも、武道が生まれた武士の時代、さらには人類が発生した時代まで遡り、自分の体、人類の体をもう一度見直し、体の遣い方を研究し、そして技の鍛錬に取り入れていってはどうだろうか。