【第225回】 受身を取り続ける

合気道に入門すると、誰でもまず、受身を上手く取らなければと思うだろう。技を覚えるよりもまず、頭を打たないような受身、ある程度極められても耐えられる受身、投げられても怪我せず飛んでいける受身、転がったらすぐ起きあがれる受身などができればよいと思うはずだ。技も覚えたいだろうが、それよりもまず受身ができればよいという、受身主体の稽古になるはずである。自主稽古時間には、先輩に投げてもらったり、関節を極めてもらう受身をとるのが楽しいはずである。先輩が、いいというまで受身を取り続けることができるようになれば、この段階の受身は合格である。

受身がとれるようになると、合気道ができるようになった気になり、うれしいものである。この時期は、まだ相手を投げることなどできないこともあるだろうが、相手を投げるよりも投げられるのが楽しいはずである。

受身がある程度取れるようになると、今度は技を覚えようとする。そのために、基本技を何度も繰り返し稽古することになり、技を掛ける方に興味を持つようになる。受身への興味は以前より減退するようだ。つまり、少しでも技を掛けたくて、受けより技を掛ける方に重点を置くようになってくる。

しかし、この段階では、技の稽古をしているつもりでも、技の上っ面をなぞっているだけであり、この段階を乗り越えてさらに新たな段階へと進まなければならないのである。つまり、技をなぞるのではなく、真の技、宇宙の法則と条理に則った技を練磨するのである。この真の技を追及するようになると、また受身の重要さが再確認されるはずである。

開祖が御健在だった頃の直弟子は強かったし、技も上手かった。かれらに共通したことは、開祖の受けを相当なレベルになっても取っていたことである。

受身は合気道の稽古を続けるかぎり、大事に取っていかなければならないものである。受身を大事に取っていかないと上達は止まるだろう。受身を取らないことは、合気道の相対稽古ではルール違反だし、受身を取れないのは身体が動かないことでもあるからまずいことになる。

受身からはいろいろなことが身について勉強になるし、無限の教えが含まれているように思える。例えば、受身を取っていけば関節や筋肉が柔軟になるし、息遣いが上手になり、呼吸と体の関係が分かるし、抑えられた手先などの末端と体の中心と結び、中心を鍛えていく等々と変わっていくのである。それ故、受けを取らなくなった時点で、合気道の進歩発達だけでなく、身体能力の発達も止まってしまうのではないだろうか。

合気道の稽古を続けている限り、ゴロゴロと転がされたり、一,二,三教で関節を極限まで極めてもらったりして、足腰の鍛錬や、関節のカスを取り、腹をつくったりしていきたいものである。