【第133回】 能動的受身

合気道の稽古の主なものは気形の稽古と鍛錬法であるというが、先ずは合気の体をつくらなければならない。合気道の技は体がつくられるよう出来ているといわれるので、基本的には合気道の技を繰り返し繰り返し稽古して体をつくっていくことになる。

合気道には試合がないから、誰でも気楽に稽古ができるが、今の人は厳しい競争社会に生きているためか、人類としての本能によるのか、道場でも相手に負けまいとがむしゃらに相手を投げたり抑えたりしたり、受けの時でも固まってしまうようである。そのため、二人での相対稽古にしても受けと取りが一つにならず、ぶつかり合ったり弾き合ったりと、ばらばらになっている。

合気道であるから、宇宙と合気ができなくとも、少なくとも稽古相手とは合気ができるようにしなければならないだろう。このために、技を掛ける側の取りも、技を掛けられる受けも、その点を注意して稽古をしなければならないことになる。

「取り」は打ってくる手を抑えたり、あるいは持たれた手を動かすにも、相手を攻める方向にだけ、つまり力を一方的に遣うのでは、力が相手にぶつかってしまうから、受けを弾き飛ばすことになり、一つにはなれ、効果がない。

「受け」もただ受身を取っていては、「取り」と一つになることはできない。「取り」は「取り」、「受け」は「受け」だからである。それに、ただ受けを取っているだけでは体も出来ず、本当の稽古にはならない。

「受け」は、体をつくる上でも大事な稽古である。初心者の内は、「取り」で投げるのが面白いので、「受け」はそこそこにして技を掛ける方に気持ちが逸るものだが、相対稽古では半分は「受け」であるから、「取り」の時だけでなく、「受け」で如何に体を鍛えるかが、後々大きな差になってくる。

「受け」はきっちり取らなければならない。投げ技もそうだが、特に抑え技はきっちりやらなければならない。きっちりとは最後まで気と力を抜かずに極め合うことである。まずは「取り」がしっかりやらなければならない。何故ならば、これは抑える側の「取り」の鍛錬でもあるからである。立ち坐りから足腰の鍛錬、指で締めるから指の鍛錬と腹の鍛錬、脇を締めて腰を回すから脇と腰の鍛錬等になる。

もう一つのきっちりやるの意味は、「受け」が「能動的な受け」を取ることである。ただ漠然と投げられたり伸ばされたりするのではなく、相手の力やそれから来る痛みを積極的に感じようとしたり、意識と呼吸で筋肉を意識して伸ばし、その硬さを取ったり、痛みが気持ちいいと感じるよう能動的に伸ばして行くのである。「取り」に伸ばさせている、手伝ってもらっているという意識をもって、「受け」が主体的にやらなければならない。

このような能動的受身の稽古は急にはできないので、まずは一人でストレッチをして習慣づけるのがいいだろう。ただやるのではなく、痛みを味わいながら呼吸と意志で筋肉を伸ばし、体を開く訓練をすればよい。

「受け」は受動的な受身だけであっては、自分の稽古にならない。受動の中に能動的な稽古をしなければならない。能動的な究極の受身とは、「返し技」と言えるであろう。

合気道の教は、物事すべてに裏表、陰陽の二面性があるということであろう。一面しかないものは半端で、力もないし美しくもない。両面そろって完全になる。「取り」を陽、「受け」を陰とすれば、陰の受身には陽の面もなければならないわけである。従って、陽の「取り」には出るだけでなく、相手を吸収してしまう面も持っていなければならないことになる。